| AND 「裸脳観音ウィズユゥ」 出口なし……札幌の青春 Ruby Shiva |
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| まあ、なんという文法外れの舞台だったことか! 外れというより無視、まるでそんなものあるの?!といった創り方だった。技法や技術のことからいったらヘタとしか言いようがない。が、不思議なことにその舞台、見るものの心を打たずにはいない何か――力のようなもの――があった。 舞台は初め、何本も八方に伸びている長くて太い黒のゴム紐。出てきた男女がその端を握り、ミキオ(山田マサル)とジュンタ(亀井健)のまわりをぐるぐる廻るところから始まる。SM風拷問だろうか、それともエピローグで、男女が2、3人ずつ組になって丸いスポットの中にまるで思い出の人々といったふうに代わる代わる浮かび上がったことを思い合わせると、絡みつく人間関係だったのだろうか。ともあれ、やがてマサルが猫とじゃれながら天井の電気を点ける。と、後方の黒幕が振り落としになって赤い幕が出現、床の赤い絨毯とともに部屋全体が真っ赤に染まる。そうしてそこでいろんなシーンが展開された後、赤い幕の割れ目にC Dのいっぱい貼りつけられた幕が現れたので、どうやら舞台全体はミキオあるいはジュンタの夢、ないしは夜の妄想だった――おそらく音楽を聞きながらの――という構造であったらしい。実際音楽はロックにポップ、ビートルズにフラメンコその他その他、まったく脈絡なしの手当たり放題といった感じで突然鳴り出し唐突に終わる。 夢だからもちろんシーンとシーンとの間にもほとんど脈絡はない。音楽が突然替わるのと同じように、様々な 男女が代わる代わる出てきて、 |
愛を口にしたり内心を独白のように吐露したり、暴れたり殴りあったり叫んだり、性的動作をしたりする。言葉も例えば「静かな部屋の窓を破れ」「右手には兇器、狂気だ」とか、「俺を愛して。もっと愛して」「お××したい」とか、「助けて。逃げたい」とか、まるで日記の片隅に書きつけられた断片のようなものが多く、なかにはスターリン主義とかベトナム戦争とかナントカ帝国主義とかいった言葉もまじる。出てきた何組かの男女は、関係がよく呑みこめないうちに違う相手に関わっていったりするので二度見たけどどういう組み合わせであり どんな関係にあったか、ほとんど分からなかった。 ただこちらも妄想を逞しくして見ていくと、電気を点けて部屋を真っ赤にしたミキオは、蛇口の営業をしながら日々糊口をしのいでいる貧しいジュンタの、夢の中の自分であり、砂川闘争かアイク訪日阻止か鉄棒、ヘルメットで暴れるジョー(三浦哲也)や3億円犯人らしい青年(岡村智明?)もまた、ジュンタのもう一人の自分、夢のなかの可能態であった――のではないなあと想像された。 まるで違っているのかも知れない。が、作者もふつうの芝居で分かるとか分からないとか言ういわゆる「理解」なんか、全然求めてはいないようなので、安心して見ていると、それらの暴力的な、あるいはマゾ、サド入れ混じる性的なシーンたちの底から、つねに作・演出亀井健の、金はない、チキショウ、逃げたい、愛したい、殺したいといった内心の鬱屈、声なき叫びが伝わってくるのであった。役者たちの、とくに裸身の美しい男優たちの、渾身の力を筋肉の内側にぎゅっと篭めて、 |
声を振り絞って叫ぶような、力任せの演技も私の独断を根拠づけた。札幌にもこんな青春があった!
のだと思った。 病んだ時代とそこにのたうつような青春に心動かされながらしかし、一方でもうちょっとだけ、技術や技法、に意識的になってくれたら……と思わないわけにいかなかった。そうすれば、彼らはそうだったのかといったふうに、ちょっと距離をおいて頭で受けとめるのでなく、見ているものたちの内部からも呼応し共振できたのではないか、と。たとえば「夢」だからこそ、その言葉をまったく使わないで「夢」と感じさせる方法はないか。たとえばときに浅くなりときに深くなる「夢」は、どんなリズムかテンポだろうか、といったようなことである。 もちろんありきたりの舞台の技法を身につけろというのではない。そうではなくて、海外から象徴主義、浪漫主義思潮の流入した明治から、アングラ/小劇場演劇の起こった60年代、80〜90年代の渡辺えり子、天野天街にいたるまで“夢の構造“を持つ作品は枚挙にいとまなく、それぞれ独自の技法を編み出してきた。札幌という、東京文化のコンテキストに全くない地にあるからこそこれまでの常識にはない、ANDの――表現したいことがそれでなければならない――方法を発見する可能性は無限大に大きい、からである。 (しば・るびー/作劇術研究・プロデュ−ス 03.10.29) |
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E.G. WORLDV 「人間アレルギー〜なめられたくない」 「からかわれたくない」〜』 表現は爆弾だ! 沖縄のアニメ作家に託された 金堂修一 加 地 耕 三 |
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| 『人間アレルギー〜「なめられたくない」「からかわれたくない」〜』において、金堂修一は、表現物を爆弾として描き出そうとしている。 脚本家金城哲夫の母ツル子は片足を失った姿で現れる。そして、劇中もう一人身体に傷を持つ人物が出てくる。あからさまにそれと示されるわけではないが、片手に白い手袋を嵌めている宮沢真理である。彼女は哲夫が以前つきあっていた女性として現れる。身体の傷を介して宮沢真理は哲夫の母ツル子とその存在が重ねられる。真理が哲夫の元恋人であり母であるならば、その息子である七也は彼女の息子であり彼女の恋人哲夫でもある。哲夫である七也は、哲夫がかつてそうしたように「ウルトラマン」の脚本を書くことで自分の周りの世界を表現する。哲夫である七也によって書かれた脚本は哲夫に手渡され、両者で検討される。 二重の存在である七也は、一方で勤と呼ばれる少年である。勤は自分と自分の周りの世界との関係を表現する方法として自爆することを選び、そのための不発弾の埋っている地面を掘り下げることになる。この平行するふたつの場面では、七也は勤であり、脚本は爆弾である。 |
すなわち表現物=爆弾という等式が成り立つ。このとき、爆弾は爆弾である以上爆発しなければならない。そして、爆発するためには信管と火薬が外されてはいけない。信管と火薬が外された爆弾は爆弾の型はしていても、もはや爆弾として機能することは
ないからだ。 しかし、平行するふたつの場面には、もうひとつの要素がある。それは、七也と対話する哲夫であり、勤と対話する不発弾であるウルトラマンである。この場合、哲夫が、不発弾であるウルトラマンとなり、表現者=爆弾という等式も成り立つことになる。この等式においては、爆弾は爆発してはいけない。爆発しない爆弾は沖縄の海の中で、沖縄を大津波が襲う時、みんなに教えてくれるヨナタマに生まれ変わる。 爆弾は表現物であり表現者でもある。爆弾=表現物は爆発しなければならない。爆弾=表現者は爆発してはいけない。前者は機能であり、後者は個別の行為である。両者に混乱はない。しかし、爆弾を介して、表現者=表現物が成り立つように見えるとき、表現者は爆発し、表現物は不発に終わるという事態が発生してしまう。 舞台空間を見てみよう。並べられた平台の上にござが敷きつめてある。その上には円い卓袱台があり、 |
壁には梯子が立て掛けてある。そして、一升瓶とゴーヤと窓の木わくが浮かんでいる。人は出入りするが扉はなく、窓の外は壁である。この閉じた空間でふたりっきりになった哲夫と真理の会話は、表現者=表現物の等式の中で混乱をきたして、不発に終わったように思う。 だが、しかし、エピローグで、哲夫が梯子を上り舞台上から消えた時、それまで何回か繰り返されていたことを思い出した。飛行機の飛行する音が聞こえると、舞台上に飛行機の影が落ちていたのだ。閉じた空間と見えた舞台は、上空がぽっかりと口を開いた穴だったようだ。 当初、金堂修一は、表現物=爆弾を描くかに見えたが、表現物にとって信管と火薬が何なのかはあいまいなままとなり、表現物=表現者の混乱のなかで劇自体を不発に終らせたと、私は思ったが、エピローグにおいて、脚本家金城哲夫が不発弾であることをもう一度示すことで、表現者=爆弾の等式のなかで、表現者の倫理を舞台上の卓袱台の上にぽつんと置いて来たようだ。 (かじ・こうぞう/演劇批評) |