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象徴派の誘惑、あるいは、不安 ――「平心」のこと 佐伯隆幸 |
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| 韓国演劇のことは無知に近い。七○年代くらいからひと並みに関心はあって、いろいろ調べたり、昨年滞在していたパリのフエスティヴァル・ドートンヌは韓国特集だったから、パンソリやサルムノリの類いをそれこそ飽きるほど(宮廷舞踊まで!!)観たのだが、あいにく現代演劇にはまるでうとく(駒場アゴラでいくつか観てはいるが)、わたしの知識はといえば、相も変わらずパンソリ熱狂期から動いていないようなものだ。対象がなんであれ、いったん自分の関心領域に入れると、「経験」の域に達するまでのめりこまないとすまぬ偏執的体質があるので、新しいものを領野にすることには躊躇があるうえ、もう随分ア・ラ・モードなのにいまさら関与もなかろう、「自分の畑を耕さなければ」と思っていたわけなのだ。しかし、これでは京劇を中国演劇の例示とみなすのと同断、日頃、日本演劇を能や歌舞伎だと思いこむ西欧を毛嫌いしている原則に反するよと、まあ現地に一気に飛びこむのが最良なのだけれど、東京でまず入門をと秋に上演された韓国演劇をやや本気で観ることにした。 観たのはふたつ、タイニイ・アリスの『平心』というのに、ハイナー・ミュラーがらみで、劇団滄波の『作品No2』である。わずか二本だから、韓国演劇の現在を知ったというほどでも、そんな範疇に入る大した感想があるわけでもない。なんだか頼りないけど、そのまま印象でいくと、これが韓国演劇の尖端か、なるほど、退屈さは平生観ているこの国の芝居と違わないなというのと、当たり前の話だが、それにしても、コンテクストのわからぬ異国の芝居は呑みこみにくい、普通ならその抵抗感が読解の梃子になるのだけれど、その引き金をいったいどこで掴めばいいか――というところ。 滄波の方はまだいいのである、『ハムレット=マシーン』という了解の地平が一応はあり、おまけに、舞台は言葉をもたない、往時のアングラにも似た大肉体演劇だったから、いわばその図式に乗れば、おおむねおのれの観ている位相は形成できる。だが、ドイツ留学の経験があるという、おそらく若い演出家だろう、朴貞姫の『平心』となると、そうはいかない、たっぷりある言葉はとめどなく、人物の関係図もそう鮮明にみえてきはしない。異国の現代演劇に相対したときわれわれがしばしばそうするように、間違いであろうがなかろうが、手もちの演劇的類型学で一定の目印をつけて、とりあえず素直に世界に入っていく以外ない。その限りでいえば、この芝居、枕で振った通り、わたしには恐ろしく退屈だった。これは別に舞台を貶す言ではない、ベケット以来でもだれ以来でもいいが、退屈さはしばしば現代演劇の徴である。問題は退屈さの質だ。その位相でこの芝居はわたしがいつも観る日本のものとはかなり隔たって(レヴェルではない、質がである)、興味深かったことはたしかだが、しかし、なんともはや茫漠たる東洋の叡智と西欧的知の合体だとまずは映る、そうした視像、それを体験するよう(無理に!?)仕向ける造型の方向が妙に感覚を逆撫でするのだ。 |
いや、そう急いで結論はつけまい、この体験のようなもの、観劇のあいだに脳に生起したことをメモ状に綴ればそれで済む、そんな調子の舞台だ、それで進もう。われわれが地下劇場に入っていくと、すでに芝居ははじまっている、というか、いまやよくある出だし、舞台下手前に男がひとり独房の読書という趣きで、虚構なのか日常なのか一見わからぬ曖昧なたたずまいで座っている。その男がなにごとか呟き、やおら立ちあがり、上手端まで赴いて、舞台外にある大きな時計を操作するところから本芝居は開始。舞台は畳めいた低い台、もしくは、マットもどきが無造作に配置され(遠景水平にみて深読みすると、そのひとつひとつは「書物」、その隠喩のようにもみえる)、部分を構成する平らたな空間で、下手側に透明なガラス状の家具(机である)と本、そこに男がひとり、中央上手寄り斜めの畳にあぐらをかいた女がおり、奥に赤い服の女性、その向こう、背景に横一線で死体が横たわっている。机の男は本をめくり、定規か分度器をいじり計算をしている格好で、数学者ふう、赤い衣裳の女は女優であるらしく、金切り声でニーナの自主稽古をし、あぐらの女(金髪だった)はトランプ占いをしている。死体は女優の夫で、最近死んだ模様。その夫婦者を除けば、それぞれ相互関係はほとんどない、というより、家族劇ではないのだから、当然のことながら、あっさり捨象されている。で、全体はいってみれば、「私とはなにか」、死後もそれはあるか等をめぐる存在論的とも時間論的ともいえるまあ一種の哲学問答が、独話や対話や交錯がときに直接各人が言葉をかわすかたちで、ときにそれぞれの片隅で、踊りふうだったり、体操もどきを伴ったりする身ぶりをまじえつつ演じられるという寸法。ことさらさ(とりわけ暗示される主題系の)と動きや言辞のとりとめのなさ、それ自体はわるくない作話性のとことんの欠如。死についての、宇宙や存在についての総じて観念的な断片、理づめの数学、芭蕉の「無常」、「ヤー・チャイカ!」の激情、円形の光の環のなかの占い、蘇生する死体の、彼岸に移行したかどうかへの答なき問い、儀礼のような死体ごっこ、それからなにがあったのか、老子の引用もなくはなかったか、加えて、宇宙にたとえられる金魚鉢、それらしきオブジェの現前、水がしたたる効果音、太鼓、音楽、そして、ときおり舞台前の読書人、黒子が場面を変えるためにいじる脇の大時計、チック・タック、エトセトラ、エトセトラ。輪廻転生、一天地六の「骰子一擲」、要するに、「世界は書物なり」のオリエント版とでもいえるか、「曼陀羅」的サンボリスムによる劇的パーフォマンスの一丁上がり。原作のせいなのか、舞台のせいなのかは知らぬ、総じて薄味の東洋趣味、いや、むしろ、このサンボリスムの基調は西欧のものであり、西欧的なものが混交した、典型的に西欧が把握する東洋のキッチュだといわざるをえない。鼻白むのはなによりもこれである。別にインド演劇かと思って失望したわけではないが、わたしには、この芝居は、おまえら、アジアが揺るぎない独自性をもっていると思いこんでいるだろう、しかし、どれほどわれらのアジア文化なるものが曖昧で、定点なきものかよくわかったろうという厭味を含んだメタ演劇のようにみえた。その限りでいえば、この舞台はなかなかのもの、韓国演劇を期待したわたしはその皮肉にしたたか裏切られた気分を味わった。が、むろんこれは皮肉の劇などではない、だれもかも大真面目である。 | 真率さはとりあえず買うが、しかし、問題はその内実、それがもたらす退屈の質にある。 こう語ると、それはおまえが莫迦なんだ、いまはもう韓国であろうと、アジアであろうと、基軸は演劇=コスモポリタニズムだぜという反論が返ってくるに違いない。当然である。それをわたし自身いささかも否定しない。東京がそうだし、韓国にだけそれをもとめるのはそれこそオリエンタリズムというものだろう。けれど、それにしては、この造型、ナイーヴすぎないか、逆にいうと、もってまわりすぎていないか。座禅、チエーホフ、近代主義の代弁であるらしき数学、儀礼的ダンス、死体、音楽、銃声、そのうえに、時計。なにもかもがいわば既視感のうちにある情景なのである(ちなみにいうと、わたしがいちばん閉口したのはこの時計だ。まるで表現主義か、ストリンドベリの神秘劇である、われわれはもう一度そこをくぐらなければならないだろうか、死という主題が永遠的なものであるにしても。仮にそうであるならば、いちばん最初の舞台外の男の、劇でもなく現実でもない中間的で曖昧なトポス、あれはいったいなんだっただろう。むしろ、演出の振り子はむやみな劇的虚構を排して、日常の拡延に演劇を置き、そこにあると錯覚される境界を混濁させる視線にこそ正味はあったはずではないか。これではそこは分裂し、またぞろの「劇」に回帰してしまう)。リズムが眠りを誘う緩慢さであることも、運動=振りつけがあまり達者でないことも、説明的な効果音が流れることも、ストロボがたかれることもわたしはあながち撫然とはしない。無限へのゾンデという表象の(未完成な)意図はよくわかるからだ、最終場面、カーテン・コールかと思ったところで、これもよくある裏切りではあるにしろ、電話が鳴り、それをとった黒子が客席に向ってだれとかさんはいらっしゃいませんかと尋ね、それで舞台が「現実」(冒頭の世界、ないし、黒子が読んでいる「書物」)の内部という入れ子になる構造までその手探り状様態はわかるからだ。ただ、この屈折した入れ子性を含めても、それ(ら)は絵柄としてしか機能しない。つまり、やりたいことがわかりすぎるということがこの場合のわたしの大いなる不満なのである。退屈さは現代演劇の徴であるとはいえるにしても、もう踏破済みの(はずの)かつてのサンボリスムの変形ヴァージョンだったり、宇宙論、「世界苦」がストリンドベリを想起させたりするわかりのよさでない場処から出発しないと、その退屈さは謎につながらないし、そこに結実しない限り、いまの演劇(アジアのだろうと、西欧のだろうと、いまの)としてはもどかしいという体感が残ってしまう。当節死をこんなふうに扱うメタフイジックのスケールは東京ではたぶん滅多にないゆえ、勉強にはなったけれども、これが現在の普遍なのだとしたら、わが観る眼を変えねばならぬといささかならずわたしは不安になった。もしかすると、それが平心なる題の企図するものだった? それだと、この言説、まんまと術中にはまってしまったというわけだ。 (さえき・りゅうこう 演劇評論家/学習院大学教授 2003.12.31筆) |