The Indian Shakespeare Company
Love: A Distant Dialogue


過酷でシビアな現実社会の
痛くてホロ苦い 大人のラブロマンス

堤 広志
 大道芸を見るのは好きだ。見物人が取り囲み、面白ければいつまでも見ていられるし、気に入らなければすぐに立ち去れる。そんな自由で開放的な雰囲気や、日常の風景に異物が紛れ込んだような非日常的な感覚は、通常劇場では味わうことのできない楽しさの一つである。 だが、なにより一番興味をそそられるのは、大道芸を生業としている者の真情はどこにあるのだろうか? という点だ。社会的な存在として、あるいは街の一つの機能として、身分が保証されているわけではない。特に外国人パフォーマーの場合、どこの国の誰とも知れない「根無し草の遊行者」といった印象が強い。その瞳の奥底に浮かぶ哀愁にも似た表情からは、所詮自分は一時の慰み者であり、その場の感興もかりそめの交流でしかないことを自戒しているような、どこか悟りとも諦観ともとれるような無常観が感じとれることすらある。見物の中には「気楽に稼ぐ商売をして、いい気なもんだ」と蔑んだり、「着の身着のままで自由にどこにでも行けていいよな」と羨んだり、あるいは「将来の保障もない放浪生活なんて、自分だったらご免被りたい」と怖じ気づいたり、様々な思いが過ることだろう。だが、最終的には「この人はなぜこの仕事を、どういう思いでやっているのだろうか?」と、その人の生い立ちや生き様、その胸の裡を知りたくなるのではないだろうか。
 ニューデリーから来日したThe Indian Shakespeare Companyの『Love:A Distant Dialogue−愛:よそよそしい対話』は、そうした大道芸人と見物人との心理的なかけ引きをリアルに写し取った公演だった。『ロミオとジュリエット』の現代的翻案であり、甘く切ない恋物語と思って観に行ったのだが、これが予想に反し、過酷でシビアな現実社会を反映させた、痛くてホロ苦い大人のラブロマンスとなっていた。
 インド人の魔術師カビール(ロイステン・エイベルRoysten Abel)は、昔愛したロシア娘サスキアのことを語りながら、「今日がドバイでの最後のショーだ」と大道でマジックを披露している。見物人の中から一人の娘ナターシャ(アナスターシャ・フロウィンAnastcia Flewin)を招き入れると、実は彼女もロシア人で、カビールは「サスキアにそっくりだ」と言いながらマジックに参加させる。
パフォーマンスを終え、後片付けをするカビールに、ナターシャはサスキアについて詳しく訊ねる。カビールは「もう済んだ話だ」と言い「今は君を愛してる。君はどう? イエス? ノー?」などと軽口をたたいて、二人は次第に和んでいく。
 その後も二人はサスキアのことを話題にしながら行動をともにし、かつてのカビールとサスキアの恋模様が明かされていく。サスキアは英語が喋れなかったこと、何か月か一緒に暮らしたこと、しかし結ばれることはなく、入国ビザの期限があって別れなくてはならなかったこと……。その話の節々で、カビールは「サスキアは自分を愛していた。自分もサスキアを愛していた。でも一緒に寝ることはなかった。君はどうなの?」と、ナターシャの気を惹いたりする。そして、カビールの部屋まで来ると、今度はナターシャがロシアにいた時分の辛い経験を打ち明ける。工場の劣悪な条件下で働いていた時、労働組合の幹部に慰められ恋に落ちた。それ以来、すべてが美しく思えたのだが、ある日その男は工場主の娘と婚約が決まっていると聞かされて、失意の中で叔父にレイプされ、自分は売春婦になったのだという……。「得るものは何もなかった」と言うナターシャに、カビールは「君は星を見たんだよ」と慰める。「星はとても美しい。星は光を与えるもの。君はいづれ僕のことが星のように見える時がくる」。そして、ナターシャは「サスキアのように私を愛してくれる?」。こうして二人は愛を成就する。二度と真実の愛など得られるはずはないと思っていたナターシャへの、これがカビールのせめてもの優しさだったのか。そして二人は自分たちの境遇を呪うかのように、渾身の力を込めて咆哮する。翌朝、ナターシャは「あなたの話は私に何かを与えてくれた。 だから、サスキアに会いに行けるよう、航空チケット代を出してあげる」と申し出る。 しかし、カビールは「サスキアの話は自分の話だ」と言う。ナターシャは「サスキアの話は嘘だったの?」と問うが、 カビールは「私の中の真実の話だ」と説明する。つまり、これは自分自身の問題であり、君には関係のないことだという意味なのだろう。空港でナターシャを見送った後、再び大道芸を始めるカビール。「ドバイでのショーは今日で最後だ」と冒頭と同じセリフを唱えるものの、彼が語る恋人の名前はナターシャに変わっていた。そしてその顔付きからは以前のような明るい表情は消え、憤懣やる方な
く、どこか投げやりに決められた段取りをこなしているような姿があった……。
 全編英語による上演だが、カビールは常に自分のことを「me」と言うなど(例えば「Me love her.」等)、そのセリフには文法的に誤りがある。しかし、それは役づくりのための“意図的な”セリフまわしと言えるだろう。作・演出もこなすカビール役のエイベルは、ニューデリーの国立演劇大学を卒業後、イギリスのRSC(ロイヤル・シェイクスピア・カンパニー)やテアトル・ド・コンプリシテに研修した経歴も持つ。また「英語が喋れなかった」とするサスキアとの回想シーンではセリフを排し、ダンスやマイムによるフィジカルシアター的な場面処理がなされており、過去の思い出話と現在の会話が絶えず交錯する複雑な劇構造を取っている。また二人とも、終始ナチュラルにして誠実な演技で臨んでおり、彼らがリアリズムの演技に裏打ちされた確かなテクニックと、現代演劇の教養を積んでいる様子が見て取れる。つまり、クオリティの高いスキルと構成力が、この悲痛にして切ないドラマの世界観を支えているのである。特に終盤、カビールとナターシャのセリフのない空港までの道行きは、まるでドキュメンタリー映画を見るように、深く静かな悲しみが淡々切々と胸に訴えかけ、秀逸なシーンだった。 
 もう一つ重要なことは、これが単なる恋物語でなく、確かな社会認識によって成り立っているという点だ。インドはカースト制による階級意識の依然根強い国でもある。一方、ロシアもソビエト連邦の解体後、混迷する民主化政策の下で人民たちは喘いでいる。だが、社会的立場の弱い者同士が異国の大道で出会い、互いの傷を舐め合ったとて、それが何になろう。それぞれ自国の現実を受け止めながら、自立して生きていくこと。常に自分を開示し、世界と対峙して、遠く離れた愛する人を思い続けていく勇気を持つこと。そして、そんな決意を胸に秘めながら、今日も世界のどこかでたくましくショーを繰り広げて生きる大道芸人がいるかもしれない。この舞台は、様々な難問を抱える世界に対して一つの解答を提示しているといえるだろう。

(つつみ・ひろし/演劇・舞踊ジャーナリスト 2003・10・7)


五ノ井 宇

インド音楽、セクシーなダンス男の口ひげから
垣間見える白い歯人なつっこい目……
身体だけで創った芝居
 まず一言。面白かった。ダイナミックな芝居だったが、中に繊細な部分もあって、それが表現出来ていたからこそ面白かったのだと思う。また、完成度の高い芝居だとも思った。 良い芝居を観た時、たいていはそうだ。ひとつの作品の中に人間の喜怒哀楽、五感がきちんと、自然に納まっていて、観る者に安心感がある。
 ここで言う安心感とは、観ていてリラックス出来るということではなく技術面での心配がないということ。つまり客として観ている時にする“いらぬ世話”をしなくて済むという意味だ。よくあることだが、いらぬお世話をしていると芝居時間――リアルな時間とは異なる――に閉じ込めさせてもらえないという感覚が起こる。それがこの芝居に無かったことが僕の中では素晴らしく良かった。
 背景が黒というのも良かった。黒という色の持つ力を十分に使っていた。黒には全てを飲み込む力があり、全てを出せる魅力がある。その一方、黒という色に頼ってしまうとそこには何も残らない、伝わらないということもある。役者の身体表現が黒に負けないようにしないと飲み込まれてしまうからだ。この諸刃の剣を使いこなせていたことが、この芝居の最高の結果に繋がったのだと思う。さっき言った喜怒哀楽、五感というのも背景の黒の持つ力がうまく作用していたように思われる。
 英語劇だというのは分かっていたので、自分なりにけっこう構えて観に行った。しかしそんな心配は
杞憂に終わった。言葉はほとんど単語の羅列、分かりやすかった。 男の一途?な想いがあり、そこに女の想いが絡み合う。非常にシンプルな仕組みにもかかわらず男と女の駆け引きがあり、紆余曲折が垣間見えた。観ていて追いかけやすく、聞いていて引き込まれやすく、芝居とは何かということに改めて気づかされた。
 さて、その芝居。まず、男と女のロミオとジュリエットが始まるが、すぐに終わる。これから始まる「Love」への導入であった。安心した(本当にシェイクスピアをやられていたら切なくなっていた)。舞台は外国(背景が黒なので、二人の出身地と、男のもうひとりの架空の彼女とがいる所以外の英語圏ならどこでもいい、成立する)。その街頭で男はマジックショーを行う。見物の中にたまたま女がいる。男は女に目をつけ、架空の女との恋の話をしながら女を言葉巧みに惹きつけ、マジックにも出演させる。ここから本当の物語は始まる。ショーの後、男と女は意気投合!とまではいかないが、お互いに興味を持ち、話をする。そこで出てくるのが男の作った架空の女。愛していても国が違い離れ離れになるしかない不幸話をして女の注意を引く。男の戦法である。しかし女もすぐには信じない。ありとあらゆる話をして、次第に女を信じ込ませていく男。見事に純愛をアピールしていく。そこに織り交ぜられるのは、インド音楽と女のセクシーなダンスと、男の口ひげから垣間見える白い歯と人なつっこい目、そしてパントマイム。全てが面白い。さらに男が巧妙なのは、女に愛を不自然に語るところであろう。
 ついに女は自分の悲恋を話す。これは男に心を許したということである。二人は二人だけになれるところを求める。が、どこも同じく貧しい男女で満員、とうとう満天に星の輝く野外――昼間、ショーをしていた広場――へ行って、そこでついに恋は成就! かと思いきや、それは暴力的な性行為にしかならなかった。失敗だ。女は架空の女のいる場所への航空券をプレゼントするという。飛行場。見送る女とトランクを持って帰ってくる架空の女とが重なって……暗転。
 舞台は再び街頭のマジックショーへ。男のしゃべりが始まる。女の名前は変わっていた……。
 観終わって、これは現代の「ロミオとジュリエット」だと思った。ロミオとジュリエットの仲を裂いたのは富裕な「家」であったが、こちらは国でありビザであった。女が、男とは対照的な金髪、白い肌、バレーを基本とするダンスやアクロバット、西欧的な音楽だったのも、二人のDistant Dialogue――通じない言葉、離れ離れな関係を言葉以上に雄弁に表現していた。
 特別なものは何もなく身体だけで作った芝居、堪能させていただきました。これからも良い芝居を作り続けていかれることをアジアの島国から応援しています。

(ごのい・たかし/日本大学芸術学部 劇作専攻)