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シンガポールの性&日本の性 ―― 異なる社会のミクロな力―― 荻野哲矢 Daniel K&Co.「Melatonin」/ 銀幕遊学◎レプリカント「Serotonine」 |
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| シンガポールのDaniel K&Co.の「Melatonin」が始まる前、TINY ALICEの前で煙草を吸いながら時間をつぶしていると、明らかにDaniel
K&Co.の関係者らしき女性がA4サイズを縦半分に切った大きさくらいのシールをくれた。パフォーマーたちの顔の絵が首から下を切られて5つ。腿から断ち切られた脚の絵が4本。肩から先の腕の絵が6本。それらの身体の絵が、海の写真と幾何学模様を背景にして、バラバラに何の規則性もなく置かれている。この気持ち悪いシールは一体なんなんだと最初は思った。組み立てて遊ぶのかと思ったけれど明らかに脚や腕をつなぐための胴体がない。このシールを例えば腕一本だけはがして、どこに貼ったりしたらいいのだろう。当惑したまま時間が来て「Melatonin」は始まった。 パフォーマンスが始まって、さっきのシールに納得した。まさにシールに描かれた脚や腕など身体の末端に近い部分が極度に緊張しているのだ。普通私たちは身体全体の重心を腰に置き、腹筋や背筋で上体を支えている。腰周辺の筋肉の力が私たちの日常的な運動の源である。末端部の筋肉の動きは、中心的な筋肉の作用に支えられているからリラックスした動きができるのだ。しかし「Melatonin」では脚や腕が過剰に力んでいるため、腰から足先や指先へのなだらかで安定した力の移動が阻害され、極めて動きが不安定になり、末端末端部は痙攣している。このような身体の作用は顔の表情にも反映され、特に女性のパフォーマーは神経症的な緊張感をただよわせていた。彼女はかなり露出度の激しい衣装を着て踊っていたが、そこに性的な欲望が介在する余地はなかった。 |
一般に女性に対する欲望とは個々の女性を、ある女性的イメ ージの中心へと収斂させていくことで成立しているが、「Melatonin」の場合には身体の動きの不自然さがそのような収斂を妨げるのだ。ある男性のパフォーマーも、彼はドラッグクイーンのような衣装を着ているのだが、特に女性性を強調して逆に自分の男性原理を暴露してしまうようなこともなかった。このような点から言って「Mela‐tonin」は、作品の強度を上げるために性の問題を扱っているのではなく、性の現実を露呈させるためにこのような作品を作っているのではないだろうか。この作品にシンガポールという大都市の表象を見るのは、ナイーヴな見方である。しかし極めて自覚的な作品の構成を見る限り、この作品がシンガポールにおいて無数の形で作動しているミクロな力の作用の中で、そういう力を意識して作られた事は間違いがない。そういう意味で「Melatonin」はシンガポールの現実の表象ではなく、一つの現実の提示なのだ。 それに対して、銀幕遊學◎レプリカントはどうだったのだろうか。興味深かったのは、彼らの作品「Serotonine」においても性の問題が扱われていたのだが、その扱い方が「Melatonin」とも関係があったからだ。例えば「Serotonine」では、一人の女性が受話器に向かって「あなたのことを沢山知っているのに、あなたに会えない」というようなことを言う。つまりその女性にとって「あなた」とは全くの空想の産物なのだ。愛する対象の不在によってフェティシズムが生まれる。 このフェティシズムは演出の佐藤香聲がこの正月にTINY ALICEで上演した「サロメ」(砂月13)でも同じだった。サロメにとっての愛する対象であるヨカナンの首は、実は羽毛が詰まった黒い布に過ぎなかったのだ。 「Melatonin」では、そのようなフェティシズムの中心化作用に反抗する身体を提示しようとしていた。 |
対し「Serotonine」では、まさにそのフェティシズムを実践する人が登場してくる。ただ「Sero-tonine」に妥当性があると思われるのは、日本では無自覚的にそのようなフェティシズムを作品で実践しているような芸術家やカンパニーが多い中で、自覚的にフェティシズムの形態を提示することが、逆にフェティシズムに対する批判的な距離を生み出すということだ。 たとえば「Serotonine」後半である男性の役者が次のように言う。「この劇の間に何かに出会おうとしていたけど、結局何にも出会えなかった。」これは単なるメタ演劇の身振りではない。この台詞は通常の劇場形態や演劇において、観客と舞台上の役者の間には深い断絶があり、その断絶を生み出しているのは実は観客のフェティシズム的でナルシシズム的な視線なのだということを示している。そしてそういう視線が観客と役者のコミュニケーションを妨げているのである。単純に劇中の物語でフェティシズムを提示するだけでなく、このようなメタ演劇のレベルでも同じ問題を扱うことで、レプリカントはフェティシズムに対して自覚的だということが分かる。 シンガポールの「Melatonin」と日本の「Serotonine」は、ある問題の共通性を保ちつつ、そこに微細な差異を生み出している。それはシンガポールと日本では、それぞれの社会のミクロな力の網目の形態が様々な形で異なるのではないかという可能性を示唆する。微細な差異を多様性として言祝ぎ看過するだけでは、それは知性の自殺である。批評的知とは芸術を通じて、芸術を生み出す力の作用について思考することなのだ。 (おぎの・てつや/演劇批評) |
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