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すぎうらとしはるの「息子を待ちながら」 すぎうら事務所「赤いアンブレラ2003」 西村博子 |
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| ほんとはこの「男」、笑われなければならなかったのではないだろうか? 見ている私たちは男を笑わなければならなかったのでは?――これが見終わったときの率直な疑問だった。せっかくの不条理劇が最後に、「男」の亡妻へのただの愛情物語へとすり替わってしまったのでは?と。 すぎうらの、ちょっと太り気味、ヒューモラスな風貌。そこはかとない哀感をたたえたキャラクターは得難い。それがいきなり、ウエーブのかかった長い髪で舞台に現われればもうそれだけで可笑しいし、お椀に投げ銭されて、俺は乞食じゃない質草だと胸はればなお可笑しいし、息子が不始末を起こすたびに警察、質屋、東京駅へ タッタカタ、タッタカタ、タッタカタ、太もも上げて走り廻り、一人芝居だから質屋の親父、手代におかみさん、息子の使い……すぎうらが扮装とっかえ引っかえ大車輪でハーハーすれば、もう文句なく笑えてくる。 だがこの作品、笑っていいのはそれだけでなかった?はずだ。タバコ屋の娘をレイプした、警察につかまった、交通事故起こした、調理師になる、金送れ……次から次へと息子から男に襲ってくる難題、危難。 |
それを男は、何とか処理し息子の希望に添おうと精一杯の努力をする。しかしその努力は自分で額に汗するのでなく、亡き妻の赤い傘を質に入れ自分を質に入れ自分の内臓を質に入れ。その質屋がつぶれてもなお、その跡地に質草として居続ける……といった仕方であった。つまり男は、“自分を徹底的に質草にした”のであった。 ふと別役実の「マッチ売りの少女」を想い出した。が、この「赤いアンブレラ」が「マッチ売り」と決定的に違うところは、作の視点が、男を襲う息子の方になく、息子の不条理を耐えあるいはやりすごす男――親の世代――におかれていた、ということであろう。たしかに舞台にいちども姿を見せずに男をいたぶり右往左往させる息子は怖い。が、もっと怖いのは、男がそういう息子からの要求を決して断わらないし、自分の力で何としかしようともしないこと。ただ自分を他に預け、ひたすら息子の帰りを待ちつづけるのだ。まるで到来せぬゴドーを待つように――30年!も、である。 もとはB級遊撃隊の佃典彦の作。それを杉浦利治が自分のために書き直したのだと聞いた。執筆時の佃に安保後30年といった意識があったといえ |
ば、言いすぎかも知れない。が、自分のマイホーム主義にみじんの疑いも持たず、次から次へと外からやってくる困難な状況を変えようとしないどころか変えられるなんて思いつきもせず、どっかに自分を預けッ放しにして奇蹟の到来を待ち続ける男の姿は、観るものにどこか似る、はずであった。 最後に赤いアンブレラが舞台いっぱいに広げられたとき、その赤い色が美しく魅力的であるだけによけい、それを男の家族思いとただ受け取ってそれでいいか、私の心は宙ぶらりんになったのであった。 最後に男のたんかばい。この赤い「情念の傘」は「家一軒」「車一台」の高値で「飛ぶように売れる」という。時はおそらく日本経済の高度成長期であった。男の言葉をブルース・ビーン/すぎうらはどう読みとったのだろうか。一歩退いて赤いアンブレラに、メタ的寓意などなかったものとしよう。が、そう受け取るにしてはそれまでの男の、赤いアンブレラの扱いかた、妻を心底愛していたとは思えなかったけれども? どうなんだろう。 すぎうらにぴったりの作品選びだっただけに、作品をどう引き受けるか、今ひとつ腰の据え方が惜しまれた。 (にしむら・ひろこ Tiny Alice 主宰) |