劇団態変「碧天彷徨」
ダンスシアターの新たな可能性

貫 成人
 劇団態変の20周年を記念する作品は、これまでの作風と大いに異なるものだった。
 障害者が「施設」にいれられるシーンから作品ははじまる。 お下げ髪がいたいけな少女A(井上朋子)が自分を捨てた者に取りすがろうとするところを、後ろから近づいた施設職員(福森慶之介)が羽交い締めにし、隠し持っていたハサミを一閃すると少女の髪は失われ坊主頭になってしまう。彼女が邪険に放り込まれた部屋ではひとびとが雑魚寝しており、そこでは黒子が寝間着を人々に投げつけていく。重度の障害のため自分で着ることができない「敬子ちゃん」(金満里)の寝間着は取り上げられてしまうのだ。やがて少女Aと少女B(菊地理恵)とのあいだに人間関係が結ばれる。合間に映し出される貨物列車、横抱きにされて運ばれる障害者のシルエットは、かれらの環境の非人間性を象徴する。転機はいきなり訪れる。金網フェンスを必死で乗り越える少女Aの映像、後に残された少女Bの途方に暮れた表情、客席をかいくぐってゆく少女A。
 施設から脱出した少女Aは「外」のさまざまな場所を訪れる。その後を追う少女B。
男達(木村年男、小泉ゆうすけ、寺内たかしなど)が太鼓を叩いて騒ぐ島。断崖の穴から男達が頭や足を出す無気味な光景。鞭に襲われながら炭坑労働をする男達。救いのない光景の合間に小泉の美しいソロがはさまれる。二人の少女は出会いそうになってはすれ違う。幻想のように現れた母親に少女Bがリュックを背負わせてもらうのは唯一の救いか。
 さまざまな感情や光景がモンタージュのように積み重なり、収拾がつかなくなったとき、炎のようにたなびく赤い布の間に軟体動物的身体を持つ「敬子ちゃん」があらわれ、鞭をふるう。それはすべてを拒否する憤りなのか、敬子ちゃん自身をも焼く怨念なのか。炎が去ったとき、敬子ちゃんは手にしていた人形を捨て、空を見据える。 すべてを振り捨てて前進するかのように。
 前回タイニイ・アリスで上演された「ウリ・オモニ」は抽象的身体表現だった。障害者の状況にかんする問題意識を背景にする今回のような作風は「マハラバ伝説」(2001年ベルリン上演)以来のものであるという。とはいえ、金満里は問題意識を生でぶつけるようなやり方はとらない。
 コミカルな音楽のなか、小刻みに街並みを移した
映像とシンクロして舞台を移動する菊地は、ただ歩いているだけで「かわいい」。たびたび登場する福森が示す異形の身体は、まるでスピルバーグの映画のように「かっこいい」。寝たままでしか演技のできない寺内が小さな山高帽をかぶり、背景に足を着けて「歩く」さまを観客が「上から見下ろす」シーンでは空間感覚が奇妙に捩れる。さらに、態変の舞台では通常まさに黒子でしかなかった人々が、施設のひとびとに寝間着を「投げつける」シーンでは、舞台の約束事が現実の「健常者/障害者」の対立に重ね書きされ、目眩のような効果を生む。 個々のシーンにインパクトはあり、プロットもある。しかしストーリーはない。「演劇」的シーンにいきなりダンスがつながり、緊張を和らげる。その中で、各出演者の個性が際立ってくる。そしてすべては、障害者とそれを取り巻く環境という、われわれの誰もがいつの間にか巻き込まれている状況の真実を、ときにアイロニカルに、ときに、思いがけぬ魅力を際立たせながら提示する。金満里がやったこと、それはピナ・バウシュがはじめたダンスシアターというジャンルに新たな可能性を指し示すことだった。     
(ぬき・しげと/舞踊批評・哲学 2003.11.3)