とっても便利=オペラハウス=
the place we belong

片岡容子
 アリスフェスティバル歴代参加劇団の中で、とっても便利は屈指の観客動員数を誇る。そして出演者の数も負けずに多い。参加3回目となった『オペラハウス』では、役名のついた14人に加え、作品の舞台となる架空の田舎町「唐草町」住民として、25人の役者の名前がパンフレットにクレジットされた。
 物語は、この唐草町にたった一つ残っていた唐草小学校が、今日でついに閉校という場面から始まる。町の人々はかつて自分が巣立った校舎の閉校式に集まるが、「さよならの嫌いな」男だけが姿を見せない。その男、相川は町外れで骨董品屋を開いており、ゆかりという学生時代からの恋人がいる。ある日相川は売り物の箱の中から、大作曲家シュバルツの未完のオペラ楽譜を発見し、「小学校の講堂をオペラハウスにして、町内の人々でこれを上演しよう」と呼びかける。難色を示す町長の思惑や、オペラ制作のドキュメンタリー番組を撮りたいプロデューサーの煽りに、町の人々は一喜一憂する。
 徹底して集団・異化劇だった前作『美しい人』とは違い、大人数が登場しても、今回は相川やゆかりと共に大学でオペラサークルを作っていたまりあ、まりあの夫で自称小説家の丞歩、テレビ局のディレクターとなって10年ぶりに町へ戻ってくるハイド(オペラサークル仲間。ゆかりに相川と二股をかけられ、ふられた後に町を出た)、以上5人の関係を主軸に、田舎町の真ん中にできるオペラハウスという相川の夢想が破綻するまでを描いた作品といえる。
 相川が営む骨董屋や、ゆかりとの結婚を暗示するラストなどは、アニメ映画『耳をすませば』の設定を借りたと思われる。映画のモデルになった風景は、84年頃から数年間の多摩ニュータウンだ。かつて開発の進められた痕跡を留めながら、しかし人口減少に伴い再び変貌していく唐草町
に 、作者の大野裕之はニュータウンの現在を重ねたのかもしれない。
 結局、オペラは相川が書いたものだったことがわかり、小学校は取り壊される。唐草町の人々にとっては、その瓦礫の山がふるさとの風景になる訳だ。『耳をすませば』の中で「この道 ふるさとに続いても 僕は行かないさ 帰りたい 帰れない さよなら カントリーロード」と訳された歌『Take me home,Country Road』(映画の主人公は「コンクリートロード」と替え歌にする)とは意味が違うだろうが、やはり帰りたいけれど帰れない、雲散霧消した風景。『オペラハウス』では「あるのは無」という台詞が示すように、そして舞台奥の抜けるような青空が実は小さなパネルの集合体で、一部分が裏返されて黒くなっているように、そのぽっかりと空いた空間こそが、彼らのふるさとなのである。甘い郷愁というものへの突き放した視点が見てとれるが、自作自演を告白した相川をゆかりが受け入れ、住民も集って瓦礫の中で合唱し、全体が真っ黒に変わっていたパネルを少しだけ青に戻す最後には、この空虚な風景にそれでも立とうという意思が感じられ、前作とは違った対象への踏み込みがある。
 また大作曲家の未完オペラ、というのはプッチーニの『トゥーランドット』そのままだし、謎かけをする3人娘ピン・パン・ポンは、いつも3人1組で現れコミカルに動きながら辛辣にものをいう『トゥーランドット』のピン(宰相)パン(大膳職)ポン(料理頭)から想を得たに違いない。
 今回は、このピン・パン・ポンのナンバーが優れていた。最初の跳ねた感じから、失速して意気消沈する転調を繰り返し、また曲の冒頭では8フレーズ続けて「ち」の音で小気味よく韻を踏んでいる。他にも、まりあの参加を頑として認めない丞歩が「オペラの失われた部分 書き直せるのは多分 丞歩さんの見事な散文」と持ち上げられ、「変わってきたのは気分」と歌うなど、ただ韻を踏んでいるだけでなく、言葉の展開が巧い。字余りのナンバーもあったが、メロディに乗せると言葉の数を
 
激減せざるをえない日本語に正面から取り組んで、ミュージカルを創り続けてきた成果は顕著だった。
 さて、『オペラハウス』の主要なキャラクターは、それが拒絶・犠牲など概念を表す記号になっている『トゥーランドット』と違って、矛盾や二面性がある。だがそれぞれのナンバーを聴く限りでは、シングルノートの香りを次々嗅いだような印象が残った。
 人間ドラマをじっくり描くミュージカルならば、各人のテーマを大事にして転調・繰り返しをもっと使ってもよい。1つのメロディ(ある人物のテーマ)が、転調して他の人物によって歌われるなど、まるでメロディ自身が意思を持って動いているかのようにナンバーの中に現れれば、台詞に頼らなくとも、人物間の感情の伝播、複雑な内面は音の層として、たちどころに理解できる。例えば明らかに闖入者であるプロデューサーの健太郎は、相川の「やらせ」が発覚すると、最後は全部台詞で説明して退場する。台詞で語らずとも、町の人との距離や彼の本質は─例として適当かどうか不安だが、『レ・ミゼラブル』におけるテナルディエ夫妻の不協和音のように─曲で饒舌に表せないものだろうか。
 とっても便利の過去2作品の魅力の1つは、主題がミュージカルの曲のごとく転調や繰り返しをしながら、対象を異化していくところにあったのだが、今回はものを捨てられなかった自分勝手な夢想男が「君さえいれば」と気づく展開しかり、チラシなどにもそう書いてあるから、観る人に勇気を与えようという趣旨なのだろう。しかしひょっとしたらすべてが相川の見た幻、あるいはラストの合唱も情緒的連帯だったりして、と疑ってしまう。そんな疑問を挟む余地のない、楽曲のパワーが欲しかった。

片岡容子(日本近代演劇史研究会)