例えば、〈物語〉の話をしよう
──劇団Ugly ducklingのゆくえ── 


松本和也

 昨年、東京国際芸術祭のリージョナル部門で劇団Ugly ducklingを観る機会があった。それは、圧倒的なまでの勢いを持つ〈物語〉が客席までをもその渦に巻き込む、ダイナミックな舞台として今なお印象深く思い起こされる。ことに、その心地よいまでの直球勝負は演劇の愉悦に思えるほど楽しく、広い芸術劇場の空間構成も見事であった。
 ──そして今回、劇場空間をいわゆる小劇場サイズのタイニイ・アリスに移した「アドウェントューラ」は、文字通りの「実験公演」、あるいは意欲的に新たな方向性を示唆した舞台であったといえよう。これは否定的評価でない代わりに、前作の水準に比した時、手放しで褒められるものでもなかったということである。単に完成度 や観劇時の心地よさを考えた場合、昨年の東京公演の方が格段に面白かったという印象は否めない。ただし、そのことは必ずしも「アドウェントューラ」の失敗を意味するものではなく、むしろ多くの夢/未来を孕んだ可能性に向けて手を伸ばし始めた舞台であったように思う。 Ugly ducklingの魅力は様々に語り得るだろうが、前回公演を観た限りでは戯曲の〈物語〉性は突出しており、舞台全体が〈物語〉のエネルギーを軸としていたかの感があった。にもかかわらず「アドウェントューラ」では、童話という形式の〈物語〉を素材としながら、劇中において〈物語〉批判が主題化されているのだ。物語内容を端的に要約してしまうならば、〈物語〉の模倣=反復性──新たな〈物語〉構築の不可能性が、表面的には〈自分=探 し〉の〈物語〉として描かれたのが「アドウェントューラ」に他ならない。
 20世紀までの歴史的出来事を、童話という形式の〈物語〉に封印するため、あまたの〈物語〉を語った声はカセットテープに録音された上で破棄されるところから〈物語〉は始まる。ここに既に、〈物語〉批判が〈物語〉という形式/演劇という媒体によって遂行されるという、〈物語〉をめぐる自己撞着が看取されるが、こうした様相への自覚
的=自己批判的な認識を保持して舞台は進行していく。
 「童話認定協議団体」の1人が、1本のテープを破棄せずに現実世界に投げ込み、それを模型屋の青年が手にしたことから〈物語〉は動き出す。今やカカセットの再生媒体もないと嘆く模型屋の前に、時代の流れに遅れ続ける女・ねねがカセットデッキを持って現れる。ここから、封印されるべき20世紀の〈物語〉が再現=表象されるという事態が生起する。「絶頂ってどんなかんじ?」「パチンプチンパチン」「甲冑の喪失」と題された3つの〈物語〉は劇中劇として演じられ、それぞれ幼少年期の性/暴力、依存と対象喪失、集団からの浮遊感覚/疎外感、が下位主題とされる中で〈自分探し〉あるいは〈自己同一性の再確認〉といった共通の上位主題が浮上する。
 そして裏切ったメンバーを裁くべく異世界から「童話認定協議団体」のメンバーが捕り物よろしく模型屋の部屋に押し掛けてくるが、この時、劇中劇のあいだずっと舞台隅でその様相をみていたねねが、3つの〈物語〉に原典=童話があることを指摘し、20世紀の〈物語〉はその歴史的固有性を剥奪され、ここまでの劇構造の根幹は劇中で批判に曝されることになる。となれば、21世紀の〈物語〉もまた18-19世紀の〈物語〉の模倣=反復に過ぎないことは必定である。つまり、古く忘れ去られるべきものとして封印=破棄することも、新しいと錯覚してそこに感傷的な思いを抱くのも、実は全くの等価だということになる。これは、「アドウェントューラ」と題されてここまで演じられてきた〈物語〉もまた、古き時代からの〈物語〉の語り直しに過ぎず、何らの新しさや21世紀固有の歴史性を持たない凡百のクリシェであると自己規定するに等しい。先に、「実験公演」といったのはこのあたりの、〈物語〉への真摯な対応と高いハードルの設定を指してのことである。90年代以降の小劇場シーンを振り返った時、こうした中長期の射程を持った演劇的課題が、しかも劇中において提示されたことの重要性は強調しておきたい。
 この後の舞台進行は、4つ目の〈物語〉である「心音」が、原典=童話と同時並行的に上演され、心音による胎内回帰といういささか精神分析的めいた〈物語〉を
組み込むことで劇としての結構は整えられ、何もない暗闇において〈音・声〉という主題を提示して幕は閉じられる。この結末は、安心してみられるものの劇中で設定した高いハードルを乗り越えたとはいいえないうらみが残った。もちろん、この「うらみ」は「期待」でもあり、Ugly ducklingの次回公演が待ち望まれるところだが。最後に「アドウェントューラ」がその上演を通じて示唆した可能性を整理しておこう。
 まず、〈物語〉をめぐる状況の確認と模倣=反復でしかない〈物語〉が新しさを纏うこと自体が虚構であるとの批判は、正しすぎるほど正しい。その上で、では、演劇という表象形式においてどのような〈物語〉が、あるいはどのような〈物語〉の上演の仕方がありえるのか、この課題の模索は「アドウェントューラ」にも垣間見られたが、一応の〈物語〉を演じ切れるUgly ducklingが批評的視座を孕み込ん だままどのような21世紀の〈物語〉を練り上げていくのか、近い未来の成果が心待ちにされる。その際、〈物語〉が個別的多層的で複雑な出来事を安定した秩序に回収したものである以上、原理的にその模倣性は免れ得ないことを知悉した上で、それでもなお固有の歴史性が刻印された〈物語〉を目指すのか、逆に普遍性それ自体に意味を読み込んだ強度のある〈物語〉を目指すのか、あるいは全く別の方向性があるのか、そうした興味は尽きない。
 また、演劇表象ということを考えた時、劇中何度か繰り返された「流れ出した言葉は世界をつくる」という台詞もまた、今後のゆくえを占うバロメーターになるかと思う。カセットテープ(冒頭)から心音(結末)まで、終始〈音〉が話題になっていた割には、語り方や配置など〈音〉に関する演出上の戦略が薄いのが気になった。先の台詞の「言葉」が戯曲の言葉なのか舞台上の発話なのか、「世界」が戯曲世界なのか舞台空間なのか、あるいは現実世界なのかといったこととも併せて、Ugly ducklingによる21世紀の〈演劇〉が待望される。

(まつもと・かつや/近代文学・演劇研究)