<広瀬達也さん> 東京ギヤマン堂(「「死してなお盛んな男」 7月28日−8月1日)

広瀬達也さん
【ひろせ・たつや】
 1969年、東京・杉並生まれ。高校卒業後オーストラリアに2年滞在。帰国後、小劇場の舞台へ。劇団は昨年旗揚げ、今回が第2回公演。作・演出を担当、舞台にも立つ。

 「ちょっと長めの人情話 新作落語の気分で」

−今回の公演はどんな筋書きになりますか。
  やっとチラシ(プログラム)ができました。物語はここに書いてあるんですが…。
(プログラムによると、大学の付属病院に運ばれてきた急患が手当の甲斐なく息を引き取るが、血液を通じて必要以上の酸素が体内に供給されたため、充電された電気製品のように「死後」も自在に動き回る…というストーリーです)

−どんな感じの舞台になるのでしょうか。
  昨年の旗揚げ公演は「下水道記憶喪失吸血鬼」もの。そんなジャンルはないって言われました(笑い)。今回は2時間コントができればいいと思っているんですが、2時間もやると役者は疲れるしお客さんは怒るし…(笑い)。1時間40分前後になりそうです。

−作品はどんなことを考えながら書いていますか。
  台本は毎回、新作落語を書くような気分で書いているんです。ちょっと長めの落語で、ちゃんと人情話になっている。それぞれのコントが物語として途切れてない。端からみるとくだらない話をしているように見えて、ちゃんとお芝居として終わる。そんな感じを目指しています。
  最近は泣かせる芝居を書かなくなったんですが、昔は泣いて笑って帰ってよ、という感じでしたね。芝居はやっぱり娯楽ですから、楽しんで帰ってほしい。テーマ的にも大上段に振りかぶったことはなくて、こんなことを考えていたらいいんじゃない、こんなことを味わえば幸せじゃない、という浪花節とか人情話とかに近いものですね。いまもその土台は変えてないです。

−公演の準備は進んでいますか。
  エーと、ボロボロです(笑い)。ものすごく熱心にしゃべっている人の会話が端で聞いていると間が抜けている場合もあるじゃないですか。それで一番初めに(出演者に)役作りでおもしろいことを狙わないでねと言ってるんで、それで戸惑っているみたいですね。

−出演するのはどんな方々ですか。
  劇団員2人のほか、小劇場畑から数人。客演したときに知り合った役者さんたちが多いですね。平均年齢は30歳を超えます。若いモンが頑張っているとはちょっと言いづらいかな(笑い)。

−どうして芝居の道に足を踏み入れたのですか。
  芝居を志すきっかけは、中学1年でみた学校演劇公演ですね。そのときの舞台「厳窟王」をみて、将来は芝居の道に進むんだと思いました。
  高校時代の3年間で400本を超える舞台をみましたが、でもどうやれば芝居の道に進めるか分からなかった。当時は舞台に立つには養成所を出なければならないと思いこんでいて、高校を卒業した後、新劇の養成所を受けるんですが、1次は受かるけど、2次試験で落ちる。結局これは違うことをやれと言われているのかなと思って、19歳から21歳までオーストラリアに行って放浪してました。ちょうど時代が昭和から平成に変わるころです。

−オーストラリアでどんなことをしてましたか。
  競走馬の牧場で8カ月間牧童をしたり、その後はメルボルンに出てアパート暮らしをしながら皿洗いをしたり…。永住権のビザが取れなくて1990年に帰国しました。帰ってきて何かないかと思ったんですがやっぱり何もなくて(笑い)、たまたま知り合いが小劇場の人だったんで舞台に…。そのとき23歳。長い回り道でした。

−初舞台はどうでしたか。
  大変でした!(笑い)
  ある劇団のアトリエ公演に出してもらったんですが、周りは劇団研究生や養成所で勉強している人たちばかり。縫いぐるみをかぶってヒーローに扮した以外、ぼくは人前に立ったことがなかったので、もうこりゃだめだと思いましたね。でもそこで、演出家を含めてだれも、ぼくが素人だから、あるいは舞台経験がないからできない、というように決めつけなかった。ともかくそこで1本やれたので、その後も続けようかなと思いました。そんな体験からでしょうか、養成所経験のない人が好きなんです。今回も未経験者が2人が登場しますよ。

−劇団名は?
  まず言葉として口になじむかということですね。あとは既にある劇団と名前がかぶらないように。ギヤマンはガラスとダイヤモンドの両方の意味がある。そこがおもしろかった。
(2004年6月24日、東京・新宿の喫茶店)

<ひとこと>  広瀬さんは東京・山の手育ち。写真では分かりませんが、実際は1m85もある長身痩躯。話しぶりもさわやかで、都会的で響きのいい劇団名がなんとなくうなずける印象でした。
(インタビュー・構成 北嶋孝@ノースアイランド舎)

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