<金哲義さん> May「晴天長短」(2009年1月23日-25日)
少年を見る家族、親族の物語 朝鮮学校の運動会で
金哲義さん

金哲義(キム・てつよし/チョリ)
 1993年、京都芸術短期大学(現京都造形芸術大学)OBを中心に「劇団メイ」結成。大阪を中心に公演活動を続け、2002年「May」と改称。ほとんどの作・演出を主宰の金哲義が手がけてきた。出演も。SF、会話劇、コメディーとその形式は多様だが、近年は己のルーツ「在日」を探るなどテーマは常に一貫している。
劇団サイト:http://may1993.hp.infoseek.co.jp/
(shiftキーを押しながらクリックしてください)

―お名前、「チョリ」さんとお呼びしていいです、よね?
金チョリ どちらでも構いません。「哲義(てつよし)」でも「チョリ」でも。どちらも僕の本名で、この名前で両側を生きてきましたので。

― 「チョリ」さんのほうが可愛くていいわ。これからそう呼ばせてもらいますね。でも本名が二つ! 「両側」を生きてきたなんて! 在日日本人の私なんかには想像もできない人生なのかも? ワー、いろいろお尋ねするの、だんだんおっかなくなってきました。
で、突然ですが「チョリ」というのはこれ、何語の発音?(笑)
金チョリ 朝鮮語、韓国語。どちらの読み方も同じです。

―だいたい私が朝鮮半島またはその出身の方と話すときいつも迷うのは、朝鮮語と言ったらいいのか、韓国語と言ったらいいのか……。韓国籍の人には迷いなく韓国語教えてとか言えるのですが、あなたにはどう言ったら?
金チョリ 朝鮮語か韓国語かは、どちらもお気遣いなく言っていただいて大丈夫ですよ!

―ありがとう。少し気が楽になりました。さすが若い世代ですね。もっと前の世代の人だったら言い間違えると叱られちゃう。マスコミで「北朝鮮」「北朝鮮」と言ってるから、この前何にも思わず在日朝鮮の人にそう言ったら、それは差別語ですよとたしなめられちゃった。でも、ちゃんと言うには?と聞いたら、たしか朝鮮人民民主主義共和国、だったかなあ。長すぎて覚えきれない。韓国の人に韓国半島のと言うのもへんですしね。なにしろ私としては、早く38度線がなくなって一つの名前になってもらわなくちゃ、難しくてカナンです。
  話はまたポンと変わりますが、去年のAlice Festival 2007の「風の市」は、大阪猪飼野(いかいの)の五人兄妹の家。そこの末っ子と、済州島(チュジュド)からその家に入り込んできた居候が中心となっていたようにと記憶しているんですが?
金チョリ 七人兄弟ですね。母方の兄弟に設定しました。七人兄弟がチェジュ島からの密入国者に振り回される物語です。

―たしかその家の法事。長いあいだ朝鮮語を覚えるのも法事に出るのも拒んでいた末っ子が、とうとう法事のときに着る伝統的な衣装(なんと言うのかしら?)を着て、朝鮮語を話すようになるまで、だったと?
金チョリ 末っ子が物語中盤で着るのは父の葬式です。物語ラストは密入国者の葬式で着ますが…。どちらの葬式の話でしょうか(笑)。

―えっ。法事は一つだとばかり思ってました。すると末っ子のお父さんの葬式と、密入国者の葬式と、お母さんのもありました?
金チョリ 冒頭で語られる法事は父親のを設定しています。中盤には母親の法事の場面もありました。

―入院中か奥の部屋で寝てたか、とにかくお父さんは初め病気だったんですよね、密入国者の居候があの家にやってきたころは。
金チョリ 父は入院してました。パーキンソン氏病です。年代はベトナム戦争が激しい、1968年頃の話です。余談ですが、物語序盤に手塚治虫の「火の鳥」を小道具に出しましたが、68年までの作品を使用しています。

―朝鮮戦争、ベトナム戦争……私たち在日日本人はすっかり忘れちゃってますが、なるほど、「両側を生きる」の意味がちらっと覗けたような気がしましたね。そのお父さんとチュジュドとは、どんな関係だったんですか?
金チョリ お父さんの生まれ故郷です。お父さんは若いころにチェジュ島から猪飼野に渡航してきました。残してきた家族が4.3事件で全滅しました。唯一生き残った親族が物語に登場した密入国者でした。

―フーン。
金チョリ 事実、僕の母方の故郷であるチェジュ島の朝天面という地域はかなり被害が大きかった場所です。

―ひゃー。それでチェジュ島のまわりの海は血で真っ赤だというセリフがあったんですね。
金チョリ ちなみに、そのときに着る麻のチョゴリはサンボッ(「喪服」と訳すのかな?)と言います。

―フーン。舞台で末っ子が着た、アレですね。いろいろお尋ねするのが、またおっかなくなってきました。私はチュジュ島のことも4.3事件のことも知らなかったのであの作品は結構難しかった。とくに、舞台に絵として出てこないでセリフだけで語られたときの人間関係とときの経過を掴むのが難しかったのですが、でも、両袖に6枚?だったかな、ハングルでおそらく「葬」と書いてあるのだろうと想像した黒い板だけの簡素な装置で、そこに大阪弁で賑やかに大勢が長いちゃぶ台をかつぎこんで来ると、見る見るそこが日本じゃもうほとんど見られない大家族、親戚たちの居間になったり、またあっという間に猪飼野の街角になったり、密航のあんちゃん―チョリさんかっこよかったですね―と恋人とのデート・シーンに変わったり。テンポがよく、とても楽しく見られました。だからあの「風の市」を見てから4.3事件、ほんのちょっぴりだけどあれからベンキョーしたんですよ。泥棒が帰ってしまってから縄買いに行くみたいな勉強でしたけど(笑)。
  今度の「晴天長短(セイテンチャンダン)」も、チュジュ島と関係ありますか。
金チョリ 「晴天長短」はチェジュ島とは関係ありません(笑)。関西の朝鮮高級学校の運動会を舞台に描きました。2008年の夏に大阪で大阪朝鮮高級学校を舞台に「チャンソ」という作品を上演したのですが、今回はまた違ったアプローチで朝鮮学校を描いています。
  大阪と東京…それは両地に限らずもちろん全ての地域に当て嵌まる事なのですが…。同じ在日朝鮮人在日韓国人でありながら、コミュニティーの存在の差によって生き方の心構えは大きく違ってきます。しかし得るものは大きく違っても、この近年、失うものや失ったものは何故か共通しているんです。

―失うもの、って?
金チョリ 失ったものの一つに「圧倒的な共存」というものがあります。それは自分の中で大きなものです。時折り自分の作品を振り返ってみても、ほとんどがそのことを描いてきたように思っています。常に一昔前を題材にしているのも、別に回顧主義や懐古主義を持ってるわけではなくて「自分の中で失ったのかな?まだあるのかな?」という自問自答が強い気がします。
  夏の「チャンソ」では、大阪朝鮮高級学校に通う一人の少年を軸に、その少年から見た光景を描きましたが、今回の「晴天長短」は真逆で、一人の少年を見る親の世代を描いてます。

―また私の知らなかった日本を気づかせてもらえるのでは?と期待してます。「晴天長短」のキャッチ・コピーに「秋空のある晴れた日、けたたましい一つの家族の長短(チャンダン)が響く」とありましたから、きっと朝鮮の太鼓のように舞台のテンポ、リズムは複雑に美しく弾むにちがいないと思ってます。
  最後にもうひとつ。ソウルや釜山からAlice Festival 2008に来てくれた劇団の舞台を、わざわざ大阪から見に来てくださいましたが、どうでした?
金チョリ ほんの数本だけですが、韓国の劇団の作品を拝見させて頂いたのですが、作品本編の良し悪しとは関係なく、「距離」を感じました。その「距離」は僕自身にとって、とても大きな、遠い「距離」でした。

―というのは?
金チョリ 普段演劇を観にいくと、当然ですが九割八分は日本人の方々の劇団の作品で、そして作品本編の感想よりも、心の片隅にいつも「羨ましい」という気持ちが引っ掛かります。うまく言えないのだけども…自分の国に住んでいる余裕と言いますか…個々が持つ題材を様々な表現方法で描けるゆとりを常に感じてきました。そしてそれは、韓国の劇団の作品にも感じました。一つの点から始まった「僕たち」は、海を越えた数ミリの差から、今は大きな「距離」に広がっています。

―ウーム。「海を越えた数ミリの差」って、美しい表現だけど凄い言葉ですね。
金チョリ 僕自身の表現不足、発想力の弱さ、と突かれればそれまでなのですが…今、僕に描ける世界には余裕やゆとりなどなく、直球でぶつけるしか今はない。もちろん、そのような現状を悲観視などしているのではなく、自分自身が選んだ道でもあります。
  先日シンポジウムに来日されたパク・クニョンさんの言ってくださった言葉。「だからこそ君達に価値がある」を励みに感じます。

ひとこと> 日本や韓国の舞台には「様々な表現方法で描けるゆとり」がある、と言うチョリさんに私は返す言葉なく、ただ「ウーム」とうなって、ひとまず終わることにしました。このインタビュー、ほんとは12月に2度も東京と大阪でデートしたのに、ほかの話ばかりしていました。あ、そうそうインタビューもと思い出すころにはいつも時間切れ。チョリさんには迷惑をおかけしました。が、いいでしょう、これからのおそらく長いおつきあい、またチョリさんの内部に踏み込む機会もあるだろうと、勝手に思っています。(インタビュー・構成 西村博子)

>>戻る