〈新内浩之さん〉立体親切「大親切祭」〜愛ハ負ケルモ親切ハ勝ツ〜(2009年9月25日-28日)
役者と向き合って、互いに何かを引き出しあい、「人間」に迫りたい

鮒田直也さん、タイソン大屋さん

新内浩之(しんうち・ひろゆき)
1980年福岡県出身。
1999年、愛媛大学在学中に演劇を始める。上京後、2003年度ENBUゼミナール卒。
その後、少しの役者活動を経て、作・演出として原点回帰。2007年、立体親切を立ち上げ。以来、すべての公演の作・演出を担当。出演も。
Webサイト http://maglog.jp/rittai-shinsetsu/
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−新内さんの簡単な経歴を、演劇を中心にお話しください。
新内 北九州出身で大学は愛媛でした。今年29歳になります。大学は途中でやめました。演劇しかないと思いまして。東京に出てきて、2003年度にENBUゼミナールに入りました。拙者ムニエルの村上大樹さんのクラスに入りました。
  卒業後、吉本系の舞台に出してもらったり、ENBUの同期の舞台に出たりしたんですが、東京での生活に追われ、うまく演劇と関われない時期が1年半くらいありました。
  もともと作・演出をしたくて出てきたので、3回くらい同期の芝居で役者をやってから、「自分でやらなきゃな」と思って、劇団を立ち上げました。それから年1回の目標を立て、今年は1月と今回と2回公演ができます。
  中学生の時、NHKの深夜にやっていた三谷幸喜さんの「笑いの大学」を見て、「なんじゃこれ!」 「こんなことをやっている人がいるんだ!」「うわっ!」と衝撃をうけました。90年代前半のころでした。
  北九州市内の高校に入って演劇部入部を考えたんですけれど、ちょこちょこやってる感じがあんまりいい感じがしなくて、「これはないな」と思い、その時は入りませんでした。
  演劇をやりたいなという思いはずっとあったんで、大学を探す時にも、赤本(大学入試過去問題集のこと)の後ろにのっている部活案内で演劇部のあるところを探してました。あとは自分の入れるところで、大学を選びました(笑)。
  新入生歓迎の公演を見て、おもしろかったんですぐに演劇部にはいりました。
  部では役者や制作などひととおりのことはやりました。そこでも脚本を書いたんですが、部内の台本決め会議で、結局他から推薦があった既成台本に勝てなくて、上演はされませんでした。
  作家指向がその時からありましたんで、20歳の1年間で3本書きました。

−その本はどうなりました。
新内 寝かせてあります(笑)。アレンジしていつかは上演したいと思ってます。

−ENBUゼミナールはどうでしたか。
新内 おもしろかったです。入学した時、120名いました。ENBUが人数的にはピークのころじゃないでしょうか。僕たち春コースが6クラスで、秋コースも4クラスありました。それでスタジオ2つでしたから(笑)。100名が卒業公演に出ました。
  自分は「お笑い指向」ではなかったんですが、授業などでそういういうことを知って、今まで考えてきたことといろいろとつながるところも出てきて勉強になりました。
  自分の演劇体験としてもうひとつ重要だと思っているのは、松尾スズキさんです。「ファンキー!」を読んでビデオで見て、出身が同じということもあったんですが(自分の中でひっかかるポイントなんです)、衝撃的でしたね。「なにやってんだ!こんなことやっていいんだ」ということで(笑)。
  下品でもちゃんとおもしろいし、嫌みがちゃんとあるの凄いなと感じました。
  そのあたりが自分の演劇の原体験ですね。三谷、松尾、村上。松尾さんの影響下には今もまだあるかなぁ、と思っています。

−今までの公演の概略とそこを通ってきて現在はどんなことをお考えかお話しください。
新内 まだやりたいことをやってる段階ですかね。
  毎回、何か新しいことを足していこうと思ってます。世の中的に新しいことはなかなか難しいので、自分としてですが。
  第1回は、1か月前に脚本があがってたんですが、役者の人数があつまらなくて、結果、脚本を全部書き直しました。役者みながらという感じで作ることになりました。 話は、月にあこがれのある男が出てきます。彼が虚構の森を作るんですが、そこには虚構の動物がいて、みんなで話しながら、森の湖から月に行くという話でした。そこに不倫話や小学校のころの思い出の恋愛がからみます。最後は世界が爆発して、結局みんな死ぬという、わかりづらい話しになってしまいました。
  そのころからいつもやりたいこと先行なんです。
  第2回公演の「僕、飛」は1回目がわかりづらかったという役者やお客さんの感想ことをうけて、オムニバス的ではない、1本のお話になるようにお芝居を書こうと思いました。
  そのときに出てきたアイディアが「折り鶴」だったんです。
  舞台一面に模造紙を張りあわせて1枚紙を作って、その紙で2.5m×2.5mのサイズの鶴を折るというのが、最初に出てきたアイディアです。舞台上で役者が5分くらいもくもくと鶴を折っているというのはどうか、と思ったんですね。そのシーンをもとに作ってみました。そこに一つの新しいカルト的な宗教をいれたりして、世界観を二つに分けたんです。「中」という世界と「外」という世界をつくって、「中」の人たちは、「外」の人たちに直接的にも間接的にも支配されている、「中」にいるものは「外」をなにも知らないんですが、「外」は宗教で統一されているという世界です。その宗教の人たちと中の人たちのドタバタとした生きざまが描かれます。
  鶴は1万羽くらい撒きました、そんなにはなかなかみられないだろうと思ったからです(笑)。
  第3回の「八足八色(はちやしやいろ)」はさらにわかりやすくというところで作りました。
  もてない感じの男たちの話なんですが、その男たちが地下室でぐだぐだやっているところに、女の子が入ってきたり、モテル男が入ってきたりして、男女がつきあいはじめたりします。
  やりたかったことは、舞台の上の空間に網をはりたかったんです。60センチくらいの上空でしょうか。舞台の上と下という空間を作りたかった。机を置いてその上に網を張って、網の上の世界にいるように見えるように工夫しました。
  カラーボールを100個用意して、それを最後一人の役者にみんながぶつけるということをしたりしました。公開いじめみたいな感じでした(笑)。

−今回はどんな芝居になりますか。
新内 スーパーの話です。ショッピングモールが出店して旧来の商店街が崩壊していく、その中でスーパーも存続が危ぶまれる中で、起死回生のイベントを計画するという話です。後半はファンタジーになります。天使と悪魔が出てきたりして、登場人物に宇宙人が出てきたりします。
  ショッピングモールは実はスーパーを潰すのが目的ではなく、地球を守るを守るための仮の姿だったということになってます。SF仕立てですね。

−副題の「愛ハ負ケルモ親切ハ勝ツ」はカート・ヴォネガッド(※)のことばだそうですが、彼に影響をうけたと過去公演の資料でも仰ってますが、世代的にはめずらしい感じがします。
新内 完全に松尾スズキさんの影響です(笑)。ほとんどの作品を読みました。松尾さんの「大人計画」最初期に「親切伝」というシリーズがあります(※)。劇団の名前はそこにシンパシーを感じてつけました。
  松尾さんがヴォネガッドからとったのが、「親切」ということばだったので、おもしろいなと思いました。ヴォネガッドの「愛は負けるも親切は勝つ」という一節です。その二人の世界観が好きなんです。「人間が苦しみながらも、いいことをしながらまとまっていく」という考え方に共感を覚えます。
  書く上で思っていることは、自ら悪いことをしようと思っている人間はいない。なにかしらの善良心がある。という思が自分の中にはあるんです。お金儲けにしても、なにかしらいいと思ってやっている。悪いなぁと思ってやっている人間はいないんじゃないか。
  今回の登場人物にも悪いと思われる人間も出てくるんですが、それはその人の気持ち的には悪いと思ってはいない、それは本能で意識的・無意識的に「悪」だと思ってる部分もあると思うんですけど、それに勝る「善」が意識・無意識の中にあるからこそその行動をする。そこは理性云々ではなくて本能ではないかと、端から見たら、悪いかもしれないですけど、そこはしっかり描きたいですね。
  そういう考えは、むしろ松尾さんとは別なのかもしれません。

−そういうところでファンタジーになるということもありますか。
新内 そうです。ファンタジーが有効だと思っています。
  テーマと言われると毎回困るんですけど、ぼくは「人間が描きたい」ということです。 わけわからない物語を見てもらって、お客さんに「何感じる?」と聞きたいというところでやってます。だから、毎回アンケートが楽しみなんです。
  もちろん、参考にさせていただきしますが、それで自分のやりたいことが変わるということではありません。

−脚本はどのようにお書きになるのですか。
新内 ほかの作家さんの戯曲の構成を参考にしたり、もちろんヴォネガッドのことばだったり、読んだ小説だったりしますが、町を歩いている時など生活の中でふっと思うことが一番きっかけになりますね。でも、普段は気にするだけで、書き留めたりはしません。脚本を書く時に、喫茶店なので、そういうことを思いだしつつ、作品のためのノートを作ります。その後にパソコンで打ち出すので、最近は1本書くのに3か月ぐらいかかります。

−「立体親切」は劇団なんですね。
新内 廣田直也という役者と二人でやっています。ほかは客演を頼んでますが、今後はもう少し劇団員を増やしていきたい、と思ってます。

−その他の役者さんはすべて客演ですか。
新内 そうですね。
  今回役者は11名です。映像を使うのが新しい試みなんですが、映像のみ参加が2名です。映像は、きちんと芝居の中で関わるような使い方をしようと思ってます。
  客演さんはさまざまなつながりや、今回は前に出ていただいた方にまた出てもらってます。オーディションも計画したんですが、募集なしでした(△笑))。募集の形は向いてないようです。そこはゆっくりとしか進んでいかない面だと思ってます。
  まずは1回1回の公演をしっかりやっていこうと思ってます。

−演出にはどのように取り組んでらっしゃいますか。
新内 演出面で心がけているのは、役者から何かを出させることです。
  演出家が言うのが答えになって、それをそのままやられるのではおもしろくない。役者の思想とか感情の流れとかを見せてもらえてこそ、その方とやるのがおもしろいわけですから。演出家の押しつけではなく、役者がいろいろやってくれるのをチョイスするのがベストだと思ってます。
  そういうやり方なんで、端役というのは置きたくない。だから、どうしても稽古の時間がかかります。けれど、役者とやりとりしながらお互いに影響をうけながら作っていくというのが自分のスタイルといえるものです。役者が心の中で「?」と思いながらやられてもベストなものになりませんし、正直僕一人でできることは限界がありますので、役者の力を借りながら芝居を作っていきたいです。
 
−タイニイアリスはどうして選ばれましたか?
新内 冒頭で話した自分が役者として出ていた時に使わしていただいたことがありましたので、愛着がありました。また前2回の公演チラシのイラストを描いてくれた、核弾頭ベービーズ兎原武彦さんと話をしてる時に、「アリスいいんじゃない」とそそのかされたというのもあります(笑)。黒い壁っていうのが昔のアングラ風で好きなんです(笑)。
もちろん劇場で公演を打つのは大変なんですが、赤字はもうしょうがないと思ってます(笑)。自分の人生はいつも難しい方を選択しているというのがあるので、ぼくの負担はもうしかたがないと(笑)、少しでも役者の取り分が増えたらいいな、と思っているんです。
(2009年8月27日)

※ ヴォネガッド:カート・ヴォネガット・ジュニア(後にジュニアがとれる)は、SFの手法を使い、皮肉とユーモアで警句的な作品を書き続けた、現代アメリカ文学を代表する作家の一人。 代表作に『タイタンの妖女』、『猫のゆりかご』、『スローターハウス5』などがある。
※ 親切伝シリーズ:1988年 劇団 「大人計画」旗揚げ2作目からの『手塚治虫の生涯』 −「親切伝」序章−。翌89年の『マイアミにかかる月』 −「親切伝」第2弾−、『嫌な子供』−「親切伝」完結編−のこと。

ひとこと> 20歳前後に芝居がやりたくて、東京に出てくる人は多かろう。それがまして「大学生」という身分保障なしにやってくることの困難を考えると、ため息が出るほど大変なことは想像するに難くない。しかし演劇に魅せられてしまった以上、とことんまで挑戦し続けてほしい。「あと6年このまま突っ走りたい」という意気込みに心からの応援を送りたいと思う。みなさんもよろしくお願いします。(インタビュー・構成 カトリヒデトシ)

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