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<武田一度さん> 犯罪友の会「手の話」(5月26日-30日)
「平和」時代の純愛物語 戦争と幻の武装計画を背景に
山田能龍さん(左)と後藤隆征さん
【たけだ・いちど】
 1950年3月生まれ。大阪市出身。1976年劇団「犯罪友の会」結成。主宰、作・演出。戦国時代や江戸時代、終戦直後など過去の歴史にテーマをとり、野外に丸太を組んだ劇場で上演する。近年は春の小劇場公演、秋の野外劇公演というスタイルが定着した。戯曲集『牡丹のゆくへ』(れんが書房)。劇団webサイト

−野外劇を続けていますが、テント劇とは違うのでしょうか。
武田 実際にみてもらわんとイメージが湧きはれへんと思うんですけど、テント劇とは根本的に違うんですよ。ここにも載ってますけどね(と資料を見せながら)こういう劇場を徹底して造るんですわ。まあ、投入するって言う概念ですね。文字通りいろんな機材を投入します。端的に言うと、テント劇って騎馬民族みたいなもんで、移動を前提にしてるでしょう。われわれは百姓というか、農耕民族みたいなもんやから、劇場を造って、店とか屋台も出ますねん。お祭りになればいいというのが最終目標なんですよ。そのためには芝居をきちっとつくらなあかん。
  野外の場合は1800本ほどの丸太で三層構造の劇場を造るんです。客席は4階建てかな。そういう意味でテントの概念とちょっと違いましたね。東京でテントが流行ったころに、大阪の人間はテントをまねしなかった。なぜかっちゅうと、あれは唐(十郎)さんが発明したもんや。まねしたらあかんのとちゃうか(笑)。大阪の人間はオリジナルを大切にしはるんですよ。あのころは特に、まねしたらあかんという風潮やったね。
  当時大阪に野外劇専門の劇団が4つ、いまは10劇団ぐらいあるんですけど、どこも移動しません。昔はテント張って旅する劇団も一つあったんですけど。

−今回の公演は野外でなく、小劇場ですね。
武田 いつも春にはこういう小屋で芝居するんです。それで秋に野外劇をします。今回の「手の紙」は小劇場用の芝居で、去年作って大阪で上演しました。

−これまでは江戸時代の設定が多くて、せいぜい明治維新前後だったと聞きましたが、今回の舞台はいきなり昭和30年代の設定になるそうです。時代がワープしましたね。
武田 江戸時代に題材を求めていたのも、実は昭和史をやりたかったからなんです。これからの日本は民族とか文化がどういうものか考えたときに、江戸時代までさかのぼった方がええかなあ、歌舞伎も勉強したいなあと思ってやり始めたんです。
  写楽や十返舎一九が活躍した1800年前後から始めました。大阪で並木五瓶という作家が活躍し始めたころですね。
  実は江戸の庶民史をやりたかったんです。貧乏人の世界はどないなっていたか、かれらは何を考えておったんやとかね、そういうことをずっと追っかけてまして、有名な人、偉い人を調べながら、その人らを主人公にせんと、その周りの人とか(偉い人のために)迷惑かけられた人らの方を描いとった(笑)。だから有名人は全然出ませんねん。そんなことを始めてあっという間に15年ぐらいたちました(笑)。それで、この3年でやっと明治初期にいってるんですわ。
  明治維新のあとのことは全然知らなかったんですが、国の形ができあがっていくなかで、維新がいろんなひとにどんな影響を与えていったんか調べてまして、3本作った。大阪中心というか大阪がテーマなんですけど。それでやっと西南戦争が終わったころですわ。
  前回公演「白いとかげ」(2004年)がそうなんです。これは捕物帖なんです。大阪には浪速隊ちゅうて、旧幕臣や奉行所におった人らを再就職させて治安に当たらせた。その女目明かしの話です。
  大阪の下町の捕物帖って東京とまた別でしてね(犯人を)捕まえないんですよ(笑)。ほんでね、町の腕自慢を集めて捕り方のメーンチームにしてるんですわ。町の人なんで怪我さしたら困るから遠巻きにしといてね、そんで石やクソをぶっかける(笑)。ほら、あんまり追いつめて、こっちにけが人が出たりしたら困るから、それが基本的なやり方だったようですよ。町のことしか考えない。町の人も暮らしを守るためだけを考える。そんで犯人に、ほら、橋渡って堀の向こうに行ったら、あっちにはだれもおらんぞ、何でもできるぞって言うたらしい(笑)。橋だけはあけておいたんやねえ(笑)。

−ぎりぎり追い詰めずに、逃げ道を作っておくのは懐が深いと言うか、昔の町の人たちの知恵なんでしょうか。ところで「手の紙」は昭和30年代のお話ですね。
武田 狙いは昭和史なんだけど、これから日清戦争、日露戦争、それから大正時代、さらに昭和20年までやるとしたら、あと10年かかるんですよね(笑)。昭和にいくまでが大変なんですよ。
  いま日本が民族主義化してますよね。それを左翼言語で批判するのは簡単やけど、それじゃあ通じないだろうなあと思う。それで右翼を知らないから、ずーっと調べてたんです。で、三無事件がありました。これは旧軍人の反乱計画なんですね。日本で破防法が適用された最初で唯一の事件です。(陸軍士官学校の)59期と60期を中心にした旧軍人と、源田実(元海軍第一航空隊参謀)は海軍の連中と連絡が取れていたんでしょうかね。単なる任侠右翼と違っているんで、彼らはいったい何を考えておったんかなあ、と。
  ところでこれをまともに芝居にしてしまったんではおもしろうない。事件に登場する連中も民族主義者というか軍国主義者というか、あんまりおもしろい連中と違う。学生部隊も参加してたんですけど、かれらもあまり興味引きません。
  (中心人物は)三無塾という塾を作ってはりましてね、無税、無戦争、無失業を掲げてた。つまり戦前の国家統制の国家を理想としていたんですが、これもあまり魅力的ではないですね。
  それで終戦2日後の8月17日に、九州・大村の航空隊で搭乗員だけが集められて、「これから野の草になれ。戦争はまだ継続していく」ということで血盟していった連中がおったんですわ。当時いちばん優秀な連中ですね。源田実の配下で戦ったその30人ほどの元戦闘機乗りが戦後ピケ破りのために、当時労働争議の盛んだった造船所の労務課に送られるんです。共産党がストライキをやり始めるとかして結構忙しかったらしい。
  そんなこんなで、その1人の中に入っていくことにしたんです。参考にしたのはうちの近所におったおっちゃんで、店をやってはって絵を描いたりしてました。われわれの親父の世代ですから、親父のことなんかも思い浮かべました。それを何とか、恋愛ドラマにしていこうかと考えた。
  出会ったときが昭和20年。労務課にいたとき、そこの社長秘書と恋愛する。手も握ったことのない恋愛なんですけど、そのときはそのまま。その女の人が17年後に会いに来る。再婚話があるんで、決心するために来る。そいつは関西の田舎で食堂をやっとって、隠遁生活しとるんですね。女の人に会ったとき何言うやろか。好きだと言えないだろうな。そう言えない人間がいてるんじゃないか。戦争への思いがあったりしてね。好きと言えなかったら何言うやろかと思った。でね、手のひらに書くんかなあ、と。紙に書くみたいに手のひらに自分の指先で書いていく。「手の紙」ですね。
  エンターテインメントにしますから、三無事件は背景としてあまり表に出さない。登場する女の人は三つのパターンに分かれてるんですよ。田舎の娼婦と、女高生と、造船所の社長秘書だったけど戦後は東京・深川の芸者になって会いに来た人。ちょっと粋なこの人との恋愛がメーンなんです。結構ね、男の純愛物語のような気がしますけど。

−劇団の名前は初めての人には恐ろしげですよね。由来があると聞きましたが…。
武田 最初名前をつけるとき、どうしようかこたつに入ってミカン食べながら考えてたんですわ。マルキ・ド・サドやアンドレ・ジイドなんかが好きでした。で、サドの「悪徳の栄え」の主人公ジュスティーヌが最後に入っていくのが「犯罪者同盟」なんです。
  犯罪は法律が変われば犯罪じゃなくなるし、(歌舞伎や文楽に出てくる)心中だって、江戸時代は重犯罪だった。生き残ればさらし者にされましたから。有名なロミオとジュリエットも、良家の子女は政略結婚が当たり前の時代に、自由恋愛なんかもってのほかだった。いまだったら不純異性交遊ですな。
  ドラマは対立と誤解とすれ違いと和解、これだと思います。要は対立せんと、どうしようもない。そのときは暴力事件もあるだろうし、犯罪もあるだろうし、と考えてみたときに、チラッと横を見たら「宝塚友の会」という会報が目に入った。ぼくは宝塚ファンだったんですよ(笑)。うーん、これだ。「犯罪友の会」(笑)。ものすごくいい加減やなあ(笑)。
  それがこの30年間、苦しめられるもとになった。その名前で市民会館を借りようと思ったら全部シャットアウト。窓口で、名前変えてきたら貸してやるなんていわれて、ハイそうですかなんて言われへんでしょう、腹が立って。そのころちょっと突っ張ってましたから。そこまで言われる必要はないわというへそ曲がりが出てきましてね。それで、絶対変えたらへんと思いました。それまで、反社会的な名前だとはいっこも思わなかった(笑)。劇団員もみんな喜んでるし(笑)。
−それで劇団のホームページができたわけですか。「入牢の手引き」という言葉が掲げられてりしてますからね(笑)。 >> (続)

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