<小島屋万助さん、本多愛也さん、吉澤耕一さん> 東京黙劇ユニット KANIKAMA
「collection vol. 2」(8月16-18日))
「カニかまぼこは、おいしい。けれどもカニかまは、カニではない。超特大のフェイクだ。」

写真(上) 小島屋万助さん(手前)本多愛也さん 写真(下)吉澤耕一さん
小島屋万助】 1956年生まれ。本名、小島強(つよし)。青年座に10年。いま「Cut In」の編集長井上二郎の、いわゆる小劇場演劇にも参加。その後、たまたま近所のマイム教室に遭遇。もともと体を動かすことが好きで本格的に週に4日のマイム学校に通い始め、ストリート・パフォーマーとして出発。87年、「小島屋万助劇場」を設立、現在にいたる。アジアマイムクリエイション実行委員会を設立、フェスティバルを開催。各国のマイミストと交流を深め、国際的に活躍する。相棒の羽鳥尚代とマイム教室も。
小島屋万助劇場Webサイト:http://www.geocities.jp/kojimayaman/

本多愛也】 1963年生まれ。本名、久哉(ひさや)。宇和島出身。宇和島東高校で野球など見たこともないまま、ガクランを着て応援団長をつとめたという挿話の持ち主。小島屋さんと同じマイム学校で先輩の小島屋さんと知り合い、海外公演も多い。90年、パフォーマンスユニット「ZOERUNA association」を旗揚げ、ソロにアンサンブルに意欲的に活動。マイムだけでなく、ナンセンスマジック、各種楽器演奏もし、映画のようにイメージ豊かなシーン創りが特徴という。
ZOERUNA association webサイト:http://www.zoeruna.com/

吉澤耕一】  80年代初めに早稲田大学から、従来の劇研、自由舞台とは異なる、一世代若い学生演劇が輩出、互いに演劇実験を競ったが、なかでも吉澤は遊◎機械初期の演出を担当、インプロビゼーションから芝居を立ち上げる方法を確立した。遊◎機械退団後も、「ア・ラ・カルト 役者と音楽家のいるレストラン」(青山円形劇場 白井晃構成)の演出は続けている。同じく早大出身の大橋遥介(太地企画)や小島屋万助とは、学生時代から創造の、競争・協力関係にある。
― 何年ぶりかしら。懐かしいわア。よくまたタイニイアリスへ来てくださいましたね。稽古を拝見してたら「出かけられない(仮題)」とか「占い師」「ペンキ屋」とか、各シーンにタイトルがついてるみたいですが、吉澤さんが台本をお書きになった、んですか?
吉澤 いいえ。小島屋さんと本多さんと、二人がこういうことをやりたいと……。それをもとにしてプロットを立ち上げていくんです。三人でああでもない、こうでもないと話し合い、実際に動いてみてまた話し合い、また動く。こういう瞬間があれば(いいね)、を求めて、創っていく。

― さっき、演出なさってるときに「体が変わいればいいんだ」っておしゃってましたよね。あなたの、演出なさっていたころの遊◎機械全自動シアターの舞台をパアッーと思い出しました。今でも目に焼きついているシーンがいくつもあります。80年代ですよね。
吉澤 そうなんですね。芝居は筋じゃないですから。そういう魅力的な「瞬間」、シーンを創ること、じゃないでしょうか。シェークピアだって初めは言葉かもしれないけど、ひょっとしたら、そういう瞬間を創っていったら結果としていい芝居になっちゃったというんじゃないかな?って思ったりする。遊◎機械のころはそういう寄り道をうんとしましたね。膨大な時間がかかり、余裕がなければとてもできないことですけど、ね。

― 小島屋さんの舞台でもありありと目に浮かぶシーンがある。たとえば、右手がこんなふうに、意思に逆らって動き出す――。
小島屋・吉澤 ああ、「悪魔の右手」、ね。
小島屋 最後はこんなふうに(何か大きくにょっきりしたものを両手で上下する。爆笑) Hになる。
吉澤 あのころの小島屋さんのテーマはサラリーマン、でした。
― そう。管理された、ね。「30代の男はこんなことばっかり考えてるんですよ」と小島屋さんがあのとき教えてくれて、フーンそうかあって、すっごく面白かった。アタシだって、毎日まじめにハイハイ言うこと聞いて働いてるんだけど頭の中では手がにゅーッつと上司の喉首のほうに伸びていってるかも、ですもんね。あのころゲージュツ的って感じだったマイムに、男のHが描けるなんて、新しい可能性を拓いたのは小島屋さんじゃないでしょうか。
小島屋 人間は妄想、ですからね。

― でもTVで、妄想を実際にやっちゃったスゴイ人いましたね。インターネットの自殺サイトで呼び出して。窒息して苦しむ顔が見たいって。
吉澤 昨日ですよね。男二人と女一人殺しちゃった。以前、犯罪を描き続けていた転位21の山崎哲さんが現実の事件が虚構を越えてしまったと、書かなくなったことがあったけど、いまや、現実が妄想を乗り越えようとしてる、のかも。
小島屋 難しい時代になりましたよね。ぼくらの妄想がいま、どれだけリアリティを持つか――。

― 本多さんは、小島屋さんとこれで2回目のユニット、ですね。小島屋さんとの出会いは――?
本多 ……。(下を向いて、いっしょうけんめい言葉を探している。)
吉澤 最初は小島屋万助劇場に出てもらって、それから小島屋万助 with 本多となって。札幌にコンカリーニョという劇場があって、今新たに建築中なんですが、そこからの紹介ルートで5〜6年、北海道中をいっしょに巡演したり……。
― 小島屋さんの、どんなとこがいい、と?
本多 ウーム、ウーム(声を発したわけではないがこんな感じ。そうとう唸って?からやっと)発想。(ホッとして)発想、ですね。(その様子に、笑)
― 小島屋さんは?
小島屋 彼の技術。
吉澤 (ほとんど同時に)超絶テクニック。僕から言うと、本田さんは瞬発力、小島屋さんは持久力、ですね。

― 小島屋さんたちのマイムは、なんなんですか? たとえばマルセル・マルソーのパントマイムと、どこが違う?
小島屋 基本的には芝居、なんです。けど、ふつうの芝居とはちがう。ウーン。
吉澤 無対象が基本だから。あるものがなかったり、ないものがあったり。自由に往ったり来たりしたいし……。

― (そりゃそうよね。言葉で簡単に説明できるくらいなら「黙劇」なんてしてない、よね。話題を変えて)基礎技術、というのもあるんですか?
小島屋 あるんですよ。たとえば体をバラバラに分解するとか。おい、やってみろよ。
本多 ええッー? (と言いながら素直に、体と首とを逆方向に、右左させる。)
小島屋 体をずらすとか。(右手でちょいと叩くと頭が左にずれ、さらに叩くとずれた頭つきで、体も左にずれる。)
― ヘエーッ。面白い。今晩お風呂場でやってみよう。
小島屋 いきなりやっちゃダメですよ。
― ヘエーッ。準備体操しなくちゃあ?
吉澤 北九州芸術劇場で「北九州パントマイム・フェスティバル」があって、毎年そこで公演するんですけど、ほかに市民の人たちが参加する講座があって、二人はそこで教えてる。
小島屋 基礎技術をまず習得してさてそこから、それぞれ自分は何を表現したいか、長期の講座で創ってくんです。

― 海外へもよく行かれますよね。
小島屋 韓国の釜山、テグ、マサン、春川、仁川。タイ、バンコック、香港、デンマーク……。太地企画といっしょにフランスやポーランドやローマも……。東京でもっとやらなくちゃ!  したいですね。今やりたい作品が少なくとも3本はある。
吉澤 だけど今回は三人で新作にこだわろうって。新しいものに立ち向かうって、苦しいんだけど。

― マイムはっていうか、言葉を使わない体表現は、80年代の初めから半ば過ぎにかけて、演劇の新しい可能性の一つとしてとても盛んだったのに、今はそうでもないみたい。ぜひもっと東京で公演して、若い、これからの人を刺激してくださるように――。
(2005年8月8日 中野区新橋某稽古場近くにて)

<ひとこと>  本多愛也さんがずっとニコニコ、寡黙だったのは確か。けどそれより、吉澤さん、小島屋さん、ヒロコの話が盛り上がり、口を挟む隙がなかったというのが、真相。本多さん、ごめんね。話は20年前のことから、海外公演のときの、思いがけない体験その他、多岐にわたった。彼らの満々たる創造意欲、現代シホンシュギシャカイにおける生きる姿勢が以前とまったく変わっていなかったのは嬉しい再発見。万助さんの変わらぬ、ニュートラルな体も懐かしかった。劇団「日本いとしの乳バンド隊」の作・演出嬢、今回は音響担当も同席。19歳のころ、どんなに彼ら早稲田勢に強い影響を受けたかを語る。さもありなん。生き方を変えた人がここにも、いた。
(インタビュー・構成 ヒロコ)

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