<朴成徳さん> 劇団アランサムセ「アベ博士の心電図」(9月16日-19日)
「記憶と権利と歴史の相克 『ファウスト』をベースに展開」
朴成徳さん
【パク・ソンド】
1976年茨城県生まれ(岡山県育ち) 朝鮮大学校文学部卒、現在同校助手。98年から劇団アランサムセに参加。2002年から脚本を担当する。
劇団アランサムセwebサイト

−劇団名「アランサムセ」の「アラン」は、アリラン伝説のヒロイン、アラン(阿娘)にちなんで付けたそうですね。後半の「サムセ」はどういう意味でしょう。在日三世ということですか。
 ハングルを見ていただくと分かるんですが、確かに在日三世という意味と、もうひとつ、生き様という二重の意味がある。つまり在日三世の生き様、という意味が込められています。

−今度の公演は、大阪朝鮮高校女子バレー部が高校総体(インターハイ)の大阪予選に出場しながら、辞退させられた事件を背景にしているそうですね。
 タイニイアリスのホームページに載せた公演案内には書いていますが、チラシではそこまでは載せていません。実はまだ、脚本が上がってないので(笑)。
−そうですか。
 今日これから(仕事の)出張で、脚本どころじゃあないんです(笑)。60−70%は出来てるんですけど。
−団員から催促されませんか。
 それは言われています(笑)。

−前回公演「不思議の国の少女A」は「迎合」がテーマだったと劇団のWebサイトに書かれています。今回はどういうことを取り上げようとするのでしょうか。
 今回は、歴史の問題がメーンです。ざっくばらんに言いますと、最近「パッチギ!」という映画が評判になりました。この映画は1960年代の朝鮮高校生の生き様を描いています。舞台は京都です。興行的にどれほど成功したか分かりませんが、ぼくたち在日三世や、学生たちも見て感銘を受け、ものすごく感激している。そのことが今回の作品を書く動機になっています。
  映画「パッチギ!」は在日二世の話なんです。ぼくはいま30歳なんですけど、映画を見て胸が熱くなるんですが、あそこに描かれたようなリアルは体験はしていない。例えば、日本の高校生とケンカしたりしていません。当時『ビー・バップ・ハイスクール』という映画の影響では多少ありましたが、日本人と抗争するというような生活体験はまったくと言っていいほどありません。こういうリアルな体験をしてきた世代とどこで線が引かれるかというと、1990年、そこが大事な分岐点になるとぼく個人は思っているんです。
  そういう中で、いまの在日の若い世代が民族性を喪失していくという問題があります。今回は歴史と、もうひとつ権利(問題)を取り上げました。
  ちょうど90年に大阪朝校の女子バレー部がインターハイにたまたまでられちゃうということがあって、1回戦に勝って2回戦に進んだところで、本当は出られないんだけれども手続き的なミスがあってこうなった、辞退してくれ、と言われた事件がありました。
  これがきっかけとなって、朝鮮高校の高体連加盟問題が全国的な運動として発展していく。実際には95年から加盟出来るようになりましたが、90年当時ぼくは朝鮮中学の3年生でした。あるとき男子生徒がみんな集められて、「今日からいっさい、日本人とはケンカするな」と先生からきつく言われました。相手が先に手を出してくるまでは絶対に殴るな、というんです。中学1,2年のころ、先輩が日本の高校生とケンカしたなどと言う話を聞くと、カッコイイと思っていた世代です。ケンカを奨励はしませんが、黙認というか、そういう雰囲気が周りにはありました。授業中でも武勇伝が飛び出したりするわけですから。ところが僕たちの世代はある日突然(ケンカは)駄目だと言われる。重要な権利を得るために、何かを抑圧される。別に悪いことではないんですけど。
  私たち在日の中に分断線がありますよね。北と南、総連と民団。そういう分断線はこれから解消されようとしているんですけど、民族性の濃い世代と薄い世代、という分断線もきっちり捕らえて、権利と歴史の2つをテーマにした話を書こうかなと思っているところです。

−バレー部辞退事件は具体的に描かれるんですか。
 リアルには書いてなくて、知っている人は分かるというようになっています。
−いまは朝鮮高校が大会に出場できるようになりましたね。
 サッカーも全国大会に出場してますし、ボクシングは金メダルを獲得しています。ラグビーも大阪・花園で開かれる大会に出場しましたね。

−歴史と権利というと、これまでの作品でも取り上げたテーマではないのですか。
 権利というのは珍しいのではないでしょうか。ぼくは劇団アランサムセの第三世代になります。旗揚げのときに参加していたのは、いまでは金正浩先生1人になりました。金先生は当初から演出担当です。ぼくは勝手に、脚本家によって3つの時期に分かれるんじゃないか、脚本家が変わることによって作品の色も変わってきたと考えています。ぼくは98年11月の「バンテージ」から劇団に参加して、2002年9月公演「アリラン〜阿里娘、我離郎〜」で作品を書き、演出も担当しました。

−もう少し詳しく3つの時期を教えてもらえますか。
 旗揚げの88年6月から94年までが第1期でしょうか。94年9月公演「夢の国さがして」から脚本家が変わりました。何が変わったかというと、劇団旗揚げの理念は朝鮮語で芝居を開くということでした。朝鮮総連に以前、演劇団があったんですが、解散して歌劇団に合体します。それ以降在日社会に劇団がなくなったので、演劇の好きな若者が集まって朝鮮語の芝居を再開したわけです。初期は統一問題が最大のテーマでした。91年の「フェオリ・竜巻」は実験的に日本語版も公演しています。バイリンガルですね。その後、この時期の脚本を書いておられた金智石先生が大阪に行かれました。
  2代目の金元培さんの考え方は、同胞のリアルな生活を描くということでした。そのためには、日本語は必要不可欠ではないかという考え方です。総連の職場で朝鮮語を話していても、地域や家庭で日本語を話している場合が多い。同胞に密着した芝居を作ろうとすると日本語は避けて通れないとなったわけです。
  02年に3代目の脚本家にぼくがなってから、朝鮮語へのこだわりを捨てたと言われると心外ですが、商業的なセンスも同伴しないと劇団としては運営が難しいだろうと考え、去年の作品から99%日本語、今年からは100%日本語で芝居をする、日本語で訴えていくのだという考え方になりました。劇団の旗揚げ以来一貫したテーマは民族であり統一であり歴史ですが、名前、国籍の問題も取り上げたことがあります。こういうなかで、言葉に対する考え方は世代によって大きく変わってきましたね。金正浩先生なんかは旗揚げメンバーですから、日本語で(作品を)書くことをやむなしとしながらも、どこかで朝鮮語作品を書き、朝鮮語で上演しようとお考えのようです。劇団内部では、そんなことも話し合っています。
  その背景には、劇団員の構成の問題もあります。ぼくは、朝鮮語にこだわりを持っていたい人間です。ぼくより年下になると、こだわりがないというか、芝居ができたらいいという人も出てきます。だったらほかの劇団で活動すればいいじゃないか、なぜこの劇団で活動するのか、そういう問題提起もありますね。その提起すら受け止められないというか、ちんぷんかんぷんというケースもあります。

−みなさんの活動が在日の方々への刺激というか、一貫して問題提起になったり自分たちのあり方を見直すきっかけになったりしてきたわけですね。
 そうですね。それがわれわれの理念であり、団結の提示です。それ以外ないですから。

−朴さんが作品を上演して、手応えというか充実感を得られたのはどういうときでしょうか。
 昨年の公演(「不思議の国の少女A」)が転機になりましたね。だれにみせるのかという問題です。それまでは同胞の人たちがみにきてくれて、よかった/ああそうか、ということだった。日本の人たちがみてくれれば、それはそれで各自が感想を持ってくれればいい。メーンターゲットはあくまで同胞だった。ぼく個人の中のことですけど、昨年の公演は日本人をターゲットに考えて作品を書きました。それまでは思想やテーマを考えましたが、前回は技法や技術を念頭に置いた芝居でした。だから同胞の人たちにはいっぱい言われました。こんな何回も聞いていることをなんでやるんだと。同胞社会のリアルな、込み入った問題ではなくて、分かりやすい、単純な問題を取り上げたからだと思います。同胞にはなにをいまさら、という厳しい批判を受けました。逆に日本人の方には新鮮だったかもしれません。演劇関係者からはお褒めの言葉をいただいたりしました。しかしいまでも、そちらの方向に踏み出していいのかどうか、迷いがありますね。劇団内部でも随分話が出ました。

−今回も昨年の公演を引き継ぐ形で開かれるのでしょうか。
 そういう方向でやってます。

−次回公演をどういう内容にするか、劇団内部で事前に話し合いますか。
 脚本も、金先生と話しながら考えていきます。最初の20枚とか脚本が出来た段階でメンバーに渡して、こういうようになると説明します。前回はリアリズムではなく、ファンタジーのように仕上げました。それに対する批判は多かったですね。内的な問題を普遍化して反映させるのではなくて、肉体的というか、悪く言うと役者がコマのように動く。どちらかというと、そういう技法になります。

−日本の劇団と同じ広場に出てきて、同じ土俵で芝居をするということになりますか。
 「パッチギ!」は肯定的に見ているんですが、それ以前の「月はどっちに出ている」「血と骨」などはどちらかというと、ぼくは否定的です。ただ崔洋一さんとか李鳳宇さんとか、在日として確固たる地位を占めましたよね。「在日」が売りになっています。在日が商売になるという発見があり、そういう指向性が芽生えました。日本の劇団と何が違うかというと、在日を売るというか、押し出していくことでしょうか。去年ぼくがおもしろいと思ったことですが、日本の劇団と二またかけて出演している人がいて、その劇団主宰者の方が見に来られて、芝居をみた後に書いた感想文に「うらやましい」などと書いてあるんですよね。何がうらやましいかというと、その方は作品のテーマを本当に考えるんです。でも自分たちは何をテーマにしていいか分からない。例えば単純に言うと、人間の平等とか男女問題とかいろいろあるけれども、深く突き詰めることが出来ない。しかしあなた方は、あふれるほどテーマを持っている。やっぱりうらやましいと思う、などと書いてあるんです。ただそういうことは、ぼくらが普通に体験してきたことで、そんなにテーマだと感じていなかったりするんですけどね。

−今度の芝居の見どころはどういうところにありますか。舞台で私たちは何をみることになるのでしょうか。
 ぼくの作品はたいていパロディーというか、下敷きにする作品があります。今回はゲーテの「ファウスト」が下敷きで、「アベ博士の心電図」がタイトル、「時代よ弾め、オマエは美しい!」がキャッチコピーになっています。これが入り口になります。次に背景として、大阪朝鮮高校女子バレー部のインターハイ予選辞退事件があります。日本人の方には初めて知るという方もいらっしゃるでしょうから、それはそれで興味深いと思います。90年以降分岐説はぼくが勝手に言ってるだけ、自分のリアルな実感から言ってるだけですから、若い世代を含めて見ている人がどう感じるか興味深い問題だと思います。

−先ほど朴さんが話された90年分岐説は、日本の国レベルや地方自治体の中に在日の方が権利を得て定着すると言うことから出てくるんですよね。逆に言うと、それらの枠組みの中に入ることですから、自分たちの中で抑制しなければならないことが出てくるのは当然ではありませんか。
 この場合は、暴力事件を起こせば、インターハイなどに出場できなくなるということですね。でもぼくの実感から言うと、180度の世界観の転換でした。それまで学校で反日教育をしていたわけではありませんが、ぼくたちの中には間違いなく反日というか、対・日本的な思想がありました。でもそれが「友好」に切り替わったのが90年からです。もちろん理念としてはずっと「友好」がありましたが、生活レベルではないわけですよ。日本の学校に通うのは裏切り者だという雰囲気がありましたから、それはもう、びっくりするような世界観の転換でした。ぼくは中学校のときサッカーをしてましたが、もう根性サッカーです。試合前に監督が言うわけですよ。だれがスライディングするかって。試合が始まったらまず、反則覚悟でスライディングしろ、相手をまずびびらせてから試合しよう、というわけです。先生がしろというからするんですが、日本の高校生はそうすると、おまえらは朝鮮に帰れ、と言うわけです。先輩は頭に血が上って、その場で相手をしばこうとしたんですが、そのとき監督が泣きながら止めるんです。ここで殴ったら、ほかが駄目になると。たかが練習試合ですけど、そのシーンがものすごく印象的でした。それまでも先生は止めていたと思いますが、何というか、やりきれない悔しさがありましたね。

−日本社会の常識で受け入れられるような行動様式に従え、ということですか。
 受け入れられるというか、受け入れてほしいというか、そのことで言えば、受け入れられなくて当たり前だと思ってるんです。テレビでよその国のドキュメンタリー番組を見ているような感じでもいいと思っているんです。今回いちばん問題になったのは、インターハイに出るというのはどういうことなのか、ということです。
  お笑いになるかもしれませんが、開会式に皇太子が出席しますね。日の丸が掲げられますね。当時の感覚としては「君が代」が流れるかもしれない。そういう下で、朝校生が行進していいのか、という議論です。ぼく自身は、反感があります。でも、出るなとは言いません。事実、そういう問題がありますけど、いまはほとんどナンセンスになってしまいましたね。
  でも権利を得る、その権利は、諸刃の剣です。在日社会はこれまで、露骨な差別を受けてきたから団結し得た。日本という国や社会があるから自分たちを認識し得た。いまは自分たちを認識していく、団結していくことが少なくなって、権利を得れば得るほど、日本人に近くなってくるんです。もちろん政策的には権利を獲得することはいいことでしょうが、自分自身を見失っていっちゃう。自分を相対的にしか認識できないのがいけないかもしれません。主体性はどうなんだ、と。確とした自己をもって、他人と見比べるのだと。なかなかそう簡単にはいかないですよね。それが今回の権利の問題です。

−日本社会で在日朝鮮人の法的な権利などが認められていくにつれて、日本社会で活動する人も増え、いま指摘されたような問題が発生するということですか。
 うーん、そういうことよりも、自分自身がだれであるか、自分たちが何者であるか、自分たちが在日だと認識する瞬間が、権利を得ることによってどんどんなくなっていくでしょう。ものすごい矛盾なんですけど、ある側面では、ぼくたちは権利は要らないという運動をしなければならないかもしれない。人間としての極限にいってしまうと、むしろ差別してくれと言ってしまいかねない側面すら持ってしまっているのが在日社会なんです。ホントに個人的に言いますと、もっと差別してくれ、差別されたって構わない、と思うときがあるんですよ。
(新宿の喫茶店、2005年8月21日)

ひとこと>朴さんのひとことひとことが、胸に残っています。「差別されたって構わない」ということばの持つ響きを、その歴史的な背景や個人史の重なりを、しばらく想起、反芻していました。その思いが舞台表現として十分練り込まれ、陰影深く刻まれることを願っています。(北嶋孝@ノースアイランド舎)

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