<松枝佳紀さん> アロッタファジャイナ第12回公演「溺れる家族」(2009年7月23日-27日)
時代から目をそらせなくなる作品に 「家族」や「現代」といま戦う
鮒田直也さん、タイソン大屋さん

松枝佳紀(まつがえ・よしのり)
  東京都杉並区生まれ。京都大学経済学部卒業後、日本銀行に入行。在職中に演劇活動を始め、退職後の2003年末に劇団アロッタファジャイナ結成。主宰・脚本・演出。映画やテレビの脚本などでも活躍。個人ブログ「正しくも松枝日記」。
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−松枝さんは京都大学を出ていますが、生まれは東京でしたよね。
松枝 ええ、生まれは東京です。一時埼玉にいましたが、また戻って東京の高校に通いました。勉強しない浪人生活を三年送って十数校を受験しましたが、唯一受かったのが京都大学経済学部でした。論文入試という枠があったんです。受かったのはそのせいです(笑)。

−まあまあまあ(笑)。東京の高校に通っていたら、ふつうは東京大学に進みますよね。京都大学を受験するというのはかなりの理由がありそうです。何が京都に向かわせたのでしょう。
松枝 ノーベル賞をとりたかったんです(笑)。京大といえば物理学だから、物理学賞を目指そうかと…。
−抑えて抑えて(笑)。
松枝 ぼくはもともと変人なんですよ(笑)。浪人中は勉強しないことをモットーにしてましたから。勉強したら、受かるのは当然じゃないですか。でもぼくは自分を神の子だと思っている(笑)。だから勉強しないで受からなきゃいけないと思ったんです。三浪しても書物ばかり読みあさって、いわゆる受験勉強はしなかった。でも必ず神さまが拾ってくれると信じていました。で、受かった。受験勉強してないのに。神様が認めてくれた。

−考え方も結果も、神さま系ですね。うらやましい。でも入学したら勉強したんじゃないですか。
松枝 経済学を猛勉強しました。実際、おもしろかった。昔も今も、世の中は混沌としているじゃないですか。この世の中がどうなっているのか把握したいという欲望がすごくあって、ぼくだけじゃなくて人間みんなにあると思う。例えばシェークスピアが現役当時なぜ人気だったかというと、今の世の中はこうなんだよと具体的に示してくれたからだでしょう。こんな奴、あんな奴がいて、こういう権力構造の中でもがいた、苦悩したということが説明されると、見た人は腑に落ちる。なるほどね、そうだったのか、ぼくらの居る世界はそうだったのかと。同じように経済学の勉強をしたら、ぼくは腑に落ちたんです。

−経済学でも学派や流派がいろいろありますね。
松枝 京大経済なので、最初はマルクス経済学を勉強して、途中から近代経済学に目覚めました。近代経済学が打ち出すさまざまな政策が時の政府の手で実行され、それによって経済が変わる。実際、そういう積み重ねで世の中が回っていく。ぼくには世の中をよくしたいという青い欲望がどこかしらあるわけですよ。近経を勉強して、それを満たすツールを手に入れたと思って興奮しましたね。
  近代経済学は一応科学なんですが、まだ突っ込みどころがたくさんある。最初は物理学を目指したんですが、物理は窮め尽くされていてあらたに入り込む余地はないなんて書かれた本を読んでいたものだから、理学部に入ったら、進化論や脳科学をやろうと思っていた。文系なら同じようなレベルで複雑性があるのは経済学や人文科学ではないかと思った。特に経済学はとてもおもしろくて、ノーベル賞を10個ぐらいとれる大発見をぼく一人で思い付きそうな気配があったんですよ(笑)。だから勉強していて、楽しかったですね。

−成績がよくないと日銀には入れませんよね。
松枝 ええ、幸い学生時代の成績はよくて、卒業するとき経済学部で二番でした。親父は「うちの息子は一番で卒業した」と言いふらしているらしいですが、実際は二番です。訂正しなきゃいけません(笑)。

−日銀には固い人ばかりという印象なんですが、うまく勤まりましたか。
松枝 固い人ばかりじゃないですよ。当時の藤原作弥副総裁は「李香蘭 私の半生」の著者です。一度だけ飲みに行って、李香蘭の話ばかり聞いてしまいました(笑)。金子兜太さんなんて俳人もかつてはいました。
  ぼくは飽きっぽくて、日銀に入ったら経済学に飽きつつあった(笑)。まず調査統計局に配属され、金沢支店1年半でまた本店へ戻りました。支店勤務はいろいろ矛盾はありましたが、現場を経験し、人を知るまたとない機会でしたね。支店の経済調査で地元企業の人たちと話すと、その会社や、あるいは地域が町ぐるみでどれほど努力しているか、頑張っているかが肌で感じられる。その経験は世の中を把握するためにも貴重でした。
  日銀を辞めて、あらためて分かったのですが、日銀は物価を相手にするところですが、日銀に勤めているぼくらみたいな人たちは、実際、何かの値段を決めたことがないんですよ。値段のことを調べているのに、企業がどうやって商品に値段を付けるかホントのところは知らない。辞めてインターネットビジネスを始めて、自分の企画や事業に値段を付ける段になって、初めて愕然としたんです。自分の能力の価格を決めるのがこんなにも難しいのかって。逆にどうつけてもいい側面もあり、価格ってこんなに不安定なものなのだと、日銀を辞めて、自分が商売をして初めて気付いた。世の中で経済を研究している学者や分析業務に携わっているアナリストは自分でなにか商品の値付けをしたことがほとんどないでしょう。経験して分かること、経験しないと分からないことっていっぱいあるんです。

−リスクを引き受けるかどうかという問題もあるのでしょうね。それほど充実していた日銀をどうして辞めることにしたのですか。
松枝 高校時代に実は、野田秀樹さんにはまっていまして、会いに行ったりしたことがあるほどなんです。会ったとき、自分の体にサインしてもらった。変態ですね(笑)。そのうえ「野田さんは東大で夢の遊民社をつくったから、ぼくは京都大学で西の夢の遊民社をつくる」なんて言ってしまった(笑)。でも実際は大学に入学してからは、演劇の「え」の字もない生活でした。三年浪人したので勉強が楽しくて経済学に打ち込んでましたから。演劇熱が再燃したのは日銀の金沢支店時代です。金沢は泉鏡花が生まれた土地ですよね。鏡花にちなんだ文学賞があって応募したり。妻をそそのかして劇団を始めたり、戯曲を書いたり。妻が演出家でぼくが脚本でした。ちなみにその妻とは戯曲の出来が元で喧嘩して離婚しましたが(笑)、そこで火が付いちゃったんです。また演劇熱に。だから本店に戻ってきても、昼休みに戯曲を書いていました。仕事は忙しかったので終電で帰宅して、それから更に戯曲を書く。そんな生活でした。だから「これじゃおれ、寝る時間ないわ」と思った。それで日銀を辞める決断をしました。当時日銀は接待汚職事件で揺れていたのですが、なんとぼくの上司は東大時代、野田さんと一緒に夢の遊民社を旗揚げした人で、彼が接待汚職でぼくの上司に飛ばされてきて「野田みたいに芝居つづけてたほうがよかったかもしれない」とつぶやくのを聞いたりしていたから、やりたいことをやる転機かな、と。で辞めた。

−ぼくも独立したとたん、生活が大変だった体験があります。松枝さんもそのあと大変だったでしょう。
松枝 世の中知りませんからね(笑)。年収が十分の一になった(笑)。でも日銀時代に妻に立ち上げさせた「人気アイテム」という劇団で、妻主演で何度か芝居を打った。実はそのときタイニイアリスで公演してるんです。2回ほどやったかな。いまの劇団「アロッタファジャイナ」は2003年11月にネット上で団員を募集して、2004年1月に旗揚げ公演をしました。

−本格的な演劇生活のために何か準備されたのですか。
松枝  そのころシナリオを勉強していて、東映がやっていた「デビルマン」のシナリオコンペに応募して最終10人に残った。そのときの監督が那須博之さんで、なぜかぼくを気に入ってくれて、監督助手として呼んでくれて映画の世界に入ることになった。しかしぼくがプロデューサーと衝突して首に。演劇を再開したのはその後で、せっかくぼくが映像の世界を経験したのだから、映像と舞台、双方を行き来する役者や作家の集まりになればいいなと劇団を立ち上げたんです。映像をやる作家にとっても演劇って都合がいい。多忙なプロデューサーに、「脚本読んでください」というとなかなか無理ですが、「芝居を見てください」というと結構敷居が低い。それで1年間限定で劇団を作りました。1年間突っ走ってみて、ぼく自身脚本家でプロになれそうな気配がなかったら全部辞めてしまおう、と思ってました。それで1年で5公演、オリジナル4本、再演1本をやりました。そのなかで楳図かずおさんの許可を得て舞台化した「わたしは真悟」に楳図さん自身が出演してくれることになって、信頼してもらって、「神の左手 悪魔の右手」の映画化をすることになった。ちょうど1年目にそれがあり、なんとなくプロになれる気配があったので期間限定劇団は解散しませんでした。しかし、その直後、父のように慕っていた那須監督がガンと分かった。入院したら余命1ヵ月と言われて、ホントに1ヵ月ちょっとで亡くなってしまった。一緒に映画「神の左手 悪魔の右手」に取りかかっている最中でした。何とか弔い合戦をしたいと思って、那須監督と親しかった映画監督の金子修介さんに相談したら、一緒にやろうということになって映画が完成しました。
  那須さんは映画「ビー・バップ・ハイスクール」の監督として有名になったけど、本当は文芸ものを作りたかったと言っていた。特に樋口一葉を取り上げたいというので、病室で樋口一葉の作品や関連資料を読みながらシナリオの構想を話し合っていました。だから那須さんが亡くなった後、第7回公演で「偽伝、樋口一葉」を上演しました。その際、金子監督に監修として協力してもらいました。満島ひかりというぼくにとってとても重要な女優と芝居をしたのもこれが最初の作品でした。

−「アロッタファジャイナ」の舞台にはどんな特徴がありますか。
松枝 チャレンジするジャンルは一作ごとに違いますけど、共通してるのは「死」の影が差していることじゃないでしょうか。あと「終末感」。野田さんの代々木体育館三部作で流れた音楽はワーグナーの「ジークフリート」ですよね。世界の終わり、世紀末という低音はぼくの中でぬぐいきれないですね。

−今度の公演は「家族がテーマ」だと企画書に出ていました。
松枝 演出するとき、役者の家庭環境が芝居に出ると気付いたんです。ある役者が特定のセリフを言えなかったり別の役者は言えたり。それはいろいろ話していくと、その役者の育った家庭環境なり、教育方針なり、親のくせだったり、そういうところに行きつく。で、それをどうかしてやろうとすると、演出はもはや精神治療と区別がなくなってしまう(笑)。そう考えると、世の中の問題のたいていというか全部の根幹には「家族」があるんじゃないかと思ったんです。
  しかし、「家族」が世の中にどのように影響を及ぼしているかの定説があるわけじゃない。
 たとえば、経済学では、マクロモデルに合理的「個人」は登場しますが、「親子」はない。ノーベル経済学賞を受賞したゲーリー・ベッカーというアメリカの学者は経済学の中に家族の概念を導入しましたが、それはゲーム理論というミクロの経済学の話であって、マクロ経済学にそれを普遍化できていない。ミクロにある「家族」のあり様がどうマクロ経済全体に影響を及ぼしているかというつなぎが、いまの経済学にはないんです。ならばそれをやるのが、ぼくの急務かなと。経済学ではなく、演劇と言うツールでですが、「家族」と「現代」をつなぐ、あるいは「家族」と「日本」をつなぐ作業をしてみたいと思ったんです。観客のために、というのもそうなのですが、まず何よりも、ぼく自身のために、そして役者たちのために、「家族」と戦うことが急務な気がして、それで今回の芝居をやろうと思いました。

−作品の世界は前作と違ってきますね。
松枝 前作「偽伝、ジャンヌ・ダルク」は、観客置いてきぼり、役者置いてきぼりの、ぼくの思考実験でした。もちろん、面白いと言われたりもしましたが、基本的には面白いと言わせようと作ったのではなくて、「奇蹟」に関するぼくの疑問点を解くために、個人的にあの芝居はどうしても必要だった。お客さんに申し訳ないのはその思考実験につき合わせてしまったということ。わかってて付き合ってくれる人もいますがそうでない人も少なくなかった。そういった思考実験の前作に比べ、今回の芝居は、普通に面白いということにこだわるつもりです。自分の作品の中では、前々作「今日も、ふつうに。」に連なる作品になります。「今日も、ふつうに。」という作品はこれまでで一番評判がよかった公演でもあるんです(笑)。どう評判がいいかと言うと、見に来た役者が「次の舞台にぜひ使ってください、出させてください」言ってくるわけですよ。これは衝撃でした。というのもこれまで役者がぼくの芝居を見に来ても「すごいおもしろかったです」と言われたことはあっても、「出させてください」と言われたことはあまりない。しかも、来る役者、来る役者に言われるわけです。衝撃と言うのは、役者が「おもしろい」ですなんて言うのはその程度のことで、役者が本当に感動する場合は、「出演させてください」って言うんだなって、じゃあ、いままではなんだったのかって(笑)、いまさらながらに気付いたってことです(笑)。勝因のひとつには、現代口語演劇であったということがあるんじゃないかと思っています。

−勝因のひとつが現代口語演劇であったということはどういうことでしょうか。野田さんの芝居などは、現実とまずは切れた世界を作り上げるために物語が動員されたりするわけですが、現代口語演劇は日常と地続きの世界を前提と場合が多いので、物語構築の手続きを省略できるからでしょうか。
松枝 現代と世界観が違う場合には、これはどういう世界のどういう物語かという説明が必要になってきます。それをいかにおもしろく(お客さんに)食べてもらうかが大事だったりします。それを腑に落ちる人、世界観を受け入れることのできる人しか後半がおもしろくない。一方でコンビニのレジに並んでいるお客さんがレジのバイトに「お客さん、チャック開いてますよ」と言われて赤っ恥をかく…なんて光景は、なんの事前説明もいらないわけです。触媒がなくてもスコッと入っていける。作る側も見る側も、考えなくていい。現代口語演劇が創作する側にも観る側にも受けるのはそういうことかなぁ。あと、微妙な雰囲気、味わい、おもしろさは、大げさな芝居では見せられない。そういうものを表現する上でも現代口語演劇と言うのは使えるツールなんだと思う。逆に、野田さんの演劇のように、1人が何役も演じる変幻自在のおもしろさもあるだろうし、大げさな表現をすることの面白さもあるだろうし、一方では、日常の感覚や実感に近いところでやる薄味のおもしろさもあるだろうし。表現方法の選択の問題かもしれませんね。
  ぼく自身の芝居は、芝居じゃないというか、ぼく自身が世界を把握するために悪戦苦闘して、ごめんなさい、ここまでしかわかりませんでしたが、こんな風なことはわかりました、という報告みたいなものだと思っています。すごく申し訳ないですが、お客さんにはぼくの悪戦苦闘に付き合ってもらっている、というか無理矢理付き合わせているのかな(笑)。ただそこから何かを拾って次につなげてくれるとうれしいというか。おもしろい話をきちんとしたフォーマットに乗せて商品として見せるのではなくて、ぼくの演劇は、ゴメン、ここまでしかできなかったという面があるんです、ぶっちゃけ(笑)。言い訳みたいになっちゃうなあ(笑)。家族のことをここまで考えたけど、ここまでしか分からなかった、というみたいに。でも、こんなことはわかりましたけど、どうですか、みたいな。

−作品はどんなに集中しても通常は身の丈しかできないことが多いでしょうが、ときにはとんでもないものに化けるかもしれない。そう思わないと取り組めないだろうし、ぼくらもそういう「暴発」を願っている面がますね。さて話は戻りますが、最初は映画界やテレビ向けに、宣伝のツールとして舞台を始めた面もあるとおっしゃっていました。最近はどうでしょう。別の意味を持ってきたのでしょうか。
松枝 そうですね。2008年12月にやった「今日も、ふつう。」という芝居は現代口語演劇でそのまま映画にできる。その反動で、2009年3月にやった「偽伝、ジャンヌ・ダルク」は映像にならないし、映像にならないことをやりたかった。
  映像にならないこととはどういうことかと言うと、たとえば「偽伝、ジャンヌ・ダルク」では、19歳の女の子に、どうしてフランス軍全軍がついていったのか、ぼくはホントに分かりたかったし、腑に落ちたかった。過去にそういうことがホントにあったのであれば、いまの時代に同じことが起きたって不思議じゃない。そうすればぼくは奇蹟や革命を信じられる。未来を生きる欲望が湧く。未来とセックスしようという気になれる。奇跡も革命ももう何もないと思ったら、未来とセックスする気がおきないじゃないですか。それは厭だ。というか、希望を生み出すためにも奇蹟はあるんだとぼく自身が腑に落ちることが必要だと思ったんです。安川結花という女優と出会ったことがかなり大きかった。この子に世界がついてくことはありうるな、とぼくは思った。だからジャンヌ・ダルクはかつていたし、これからもいるだろうと思えたんです。ならばもう少し生きてみよう。演劇をしてみようと思えたんです。そう思うための作業が「偽伝、ジャンヌ・ダルク」だった。商品としての演劇を見にきた観客にはもうしわけなかったですが。

−今回は…。
松枝 家族もそうですが、現代という時代を考えたいと思います。昔なら東大京大に入って、有力企業に就職して安定した生活を送れると思ってたわけじゃないですか。でもいまの世の中、何が起こるか分からない。象徴的な例でいえば、GMが潰れるなんて、世界のだれもが考えなかった。リーマン・ブラザーズもシティーバンクも。「蟹工船」が受けて、映画化されるなんてだれが思っていたのかということですよ(笑)。だーれも思わなかった。考えもしなかった。そういう時代の「家族」って何だろうと思いますよね。ですから「現代」という時代に必要とされる作品、見れば時代から目をそらせなくなるような作品にしたいと考えています。 そのためにも、いまぼくが「家族」や「現代」と戦う必要があるんです。いま戦っています。最中です。
  それから、いつもは20代前半の若い人たちと舞台を作ってきたんですが、今回は40代、50代の先輩の方々も配役のなかに加わってもらいました。以前から年配の方と一緒にやりたかったし、家族を取り上げた作品なので、ぼく自身すごく期待しています。

ひとこと> インタビューが決まると、ネットに載っている資料を集めて事前準備します。だいたいは集めた情報を多かれ少なかれ裏切る出会いになるのですが、今回はその幅がトンでもなく広くてメーターの針が振り切れそうになりました。遠慮会釈ない言葉とイメージの海原で、大揺れの蟹工船に乗り合わせた気分、といえば近いかな(笑)。いや、内蔵を腑分けし、血塗られた臓物を引っ張り出す神の手のイメージでしょうか(笑)。楽しい目眩に揺さぶられた2時間でした。 (インタビュー・構成 北嶋孝@ワンダーランド

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