<川松理有さん> 榴華殿(RUKADEN)「魔の華物語」(2010年5月13日−16日)
テント芝居野外劇、実験演劇を経て、20年ぶりに「物語」に挑む。これからも海外合同公演で「耕し」続けたい

後藤優也さん

川松理有(かわまつ・りう)
 1968年東京生まれ。15歳で家を出て、16歳でパンクに触れ、17歳で寺山の映画に出会う。 18歳の時に演劇を開始し、19歳で作・演出。24歳で榴華殿を旗揚げし、野外劇・実験劇に溺れる。以降、タイニイアリスをシェルターと勝手に位置づける。
webサイト:http://www.rukaden.com/
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−川松さんの演劇的履歴をお聞かせください。
川松 1968年生まれです。私自身全く演劇の知識も経験もなかったんですが、たまたまアルバイト先の人につれられて見に行ったのが初の体験でした。さらにその前の年ぐらいに、吉祥寺で寺山修司の映画の連続上映をみた。寺山さんが83年に亡くなっていたというのも後から知ったんですが。全く「テラヤマ」の名前も知らなかったのがはまって、何本も見に行きました。「トマトケチャップ皇帝」や「書を捨てよ町へ出よう」「田園に死す」などですね。
  もう一つのきっかけは、芝居を始める境界線のあたりで、たまたま古本屋さんで岸田理生(りお)さんの「捨子物語」を買って読んだんです。恐らく初めて買った戯曲でした。それに今度ははまりまして、それ以降、私が戯曲を書く原点になっています。せっかくなら自分で作りたいし、そのためには作や演出が固まっていないところがいいなと、せっかくのお誘いに逆らって、わざとできたばかりの無名な劇団に入りました。
  そこは面白かったんですが、予想通りというか、もくろみどおり、一年間でそこは解散してしまいました。残ったメンバーで作ったのが「劇団浪漫伝」という劇団で、私が作・演出を始めました。それが87年4月の「浪漫伝」の旗揚げのいきさつです。3年ぐらいやりまして普通に物語のお芝居を作っていました。そのころ白水社の「新劇」という雑誌で、劇評を書いてらした林あまりさんに取り上げていただいたことがありました。そんな経緯で、少しずつタイニイアリスとつながりをもつようになったんです。
  4年ぐらい活動しまして、その中で1回テント芝居をしたり、人形が出てくるのをやったりして、もうある程度やりたいことはやってしまったな、という感じでしたんで、もう芝居は辞めよう、足を洗おうと思いまして、解散しました。
  最後の公演は吉田良(現・良一)さんと一緒に人形を作っていた天野可淡さんの追悼公演だったんですけど、人形をモチーフとしたものでした。そのときに集まっていたメンバーがやる気がある人たちで、もう一回やろうよ、といってきたんですが、いや、もう散々やったので…と断ってました。じゃ今までと違う、野外劇を中心とした劇団を作らないかという提案をしてくれて、「あ、それならちょっとやってみようかな」と思ったんですね。それが「榴華殿」の発端です。旗揚げが92年の湯島聖堂大成殿前での野外劇です。
  そういったように、本来、野外劇の劇団なんですけれど、タイニイアリスとは、オーナーの西村さんが懇意にしてくださったこともあって、タイニイだけは劇場でやりましょうということになっていったんですね。せっかく小屋でやるんであれば、実験的なお芝居を作っていこうということで、第2回公演からその都度やらせていただいてます。野外やテントでやるときは大河ドラマというか、ドラマチックなお芝居をかけるようにして、アリスでやるときは実験的なお芝居をやるという、2本立てでずっと進んできました。今は小屋でやるときも、見境なく何でもやるようになったんですが、多分それは途中、海外公演などを経験しているうちに、いろいろ考え方が変わってきたことが、大きな要因です。

−寺山修司、岸田理生の影響は大きかったですか。
川松 そうですね。世界観は寺田さんというより、どちらかというと岸田さんに近いんではないでしょうか。戯曲の上では唐十郎さんにも影響を受けました。やはりもともとテントよりなんですね(笑)。2004年の岸田理生一周忌追悼公演で、まさか20年以上たってから、自分が「捨子物語」を上演することになるとは少しも思わなかったですけれどもね。

−榴華殿は初期から助成金を受けていましたよね(*1)。 また、97年からはアジアでの海外公演や合同制作に取り組まれていますね。
川松 制作を含めみんな素人でしたから、申請書類の手続きなど得意じゃなかったんです(笑)。 やはりやっていることが、野外だったりとか、実験劇だったり偏っていましたので、そういうところで判断して助成をいただけたのではないでしょうか。確かに海外を回るようになったのも、早い方でしたので、様々な経験をしました。97年に韓国行った時も、行く方のこちらとしても大丈夫かなと思いながらでした。当時はそのまま日本語でやっていました。字幕もレジュメも作らず、ほんとに舞台だけをみせていました。韓国に2回、台湾に5回、北京・上海・香港・マカオと出かけていってます。
  向こう側も受け入れ準備も整っていないし、こちらへの見方も偏っている状態でした。今思うと、なかなかその時ならではのことがあったんでしょうけれど、どのくらい何が影響したのか、わからないですね。受け入れという点でいろいろありましたが、当事者レベルでは、「ものを作る」という目線がお互いに同じでしたので、政治的な背景とかが気になるようなことはなかったですね。

−このところ公演の間隔が開いていますね。
川松 2年ぶりです。その前の公演も2年開いてました。正直にいうと、自分の中で、何かを作ろうという自発的な欲求が少し低くなっていたんだと思います。2年前の台湾の合同公演、その前の韓国との合同公演も、どちらかというと、彼らの方からやろうよやろうよと背中を押されてやった感じでした。自分がずっと作ってきた実験劇などがちょっとやりつくしてしまった感があって、自分自身何がお芝居なのか、しばらくわからなくなってしまっていたように思います。それは評価がどうかとかではなくてですね。自分の中で手詰まり感が起こってしまい、自分の持ち札を使い切ってしまったのかなぁというのがあったんです。
  今年は急に2本企画がたっています。共に「せりふ芝居」なんです。もう一度原点に還って、お芝居始めたころのように、「物語」でしよう、という気持ちに戻ったので、やる気がでてきたんだと思います。今は盛り上がってきました(笑)。いつもより物語がはっきりしているのと、装置も抽象的なものからやや現実的なものへと変わりましたんで、本当に初期のころから見ている人以外には、変わったと思われるかもしれませんね。自分としては昔に、物語芝居、テント芝居をやってたころに戻っただけなんですけれどね。

−物語を作るということはどのような気持ちの変化なんでしょうか。
川松 今の自分が物語をつくると、かつてと違う目線で作れるんじゃないかと思いいたりまして、やってみたかったんです。かつては「物語そのもの」を見せようという書き方で、そういう演出の仕方だったんですけど、実験劇を通過してしまった今、「物語」は「物語」、「見せ方」は「見せ方」、そういう別の視点で物語を演出できるじゃないかと思っています。それをやってみたくなったんです。
  今の若い人たちのお芝居を見てますと、面白いと思います。自分と違うからこそ、面白いですね。同じことやってたらもっと厳しい目で見ちゃうでしょうけれど。考えてみると、私はほかの方を作る時に意識したことがないんですね。全く個人的に作ってしまっていて、自分がみたいものは自分が作るしかないのかなと、やってきましたね。

−今後の活動は決まってらっしゃいますか。
川松 来年、海外との合同公演の話があります。

−海外での活動や合同公演についての経験についてお話しねがえますか。
川松 海外の方と一緒にやるときに、ドラマを作ろうと思えばそれはそれで作れるんでしょうが、向こうの方がそう思わないとそれは難しいです。準備は1年前くらいから始めますが、短い時は半年前からになります。向こうの助成金次第ということが多いです。我々は仮に助成金が取れなくても、やってしまうんですが、あちらは助成金がとれないと基本的にあきらめることが多いです。
  韓国でやった時は作も演出も一緒にというアプローチをいただきましたし、台湾の時は演出をやってほしいという話をいただいて、その延長線で本も書くということがありました。お国柄なんだと思うんですが、台湾の方はわりと日本文化を吸収したいという姿勢で、こちら側に作る部分を任せてきます。韓国の場合は、自分たちの何かをぶつけたいし、お互いにぶつかりあいたいというので、イーブンなスタイルを求めるという印象がありますね。

−脚本を共同するときはどのようになさるんですか。
川松 私がやった時は大筋を決めておいて、パートごとに分けました。自分のパートに関しては日本でやるときは日本語、韓国では韓国語で行いました。部分的に日本語で押し通すところもありましたが。そのときは韓国側が日本人役者を演出して、日本側は韓国役者を演出するという公演でした。今は自分の劇団が行くときは、向こうのことばでやるようにしています。

−意志の疎通に難しさはありますでしょうね。
川松 日本側が受け身なんだと思うですが、日本の役者たちはそんなに食い違いが生じてないようです。逆に向こうの国の役者からはいろいろな質問がでてきます。話し合いを求めてきますね。それぞれの感じがします。

−海外での活動を続けてきて、どのように考えがかわりましたか。
川松 当初は日本の美意識が果たして伝わるかどうか、ということで始めたんです。今わかるのは、日本だからどうのではなく、一表現者としてお互いが作っていくものについては、それぞれの国の違いというのは実はそんなに大きな問題ではなかったということです。私と一緒にやってきた韓国、台湾の人たちはみんな同じ意識でいるんじゃないか、と感じています。
  私も初めから興行的なことに興味がなかったわけではなかったんですが、海外でやると入場料収入が存在しませんので、そういうことは考えなくなりました。
  そもそも海外でやっても日本での評価って変わらないんですね。1年以上海外にいて、その間国内で公演しないでいると、知名度は下がるだろうなと予想してましたが、案の定帰ってきたら、だれも覚えてなかった(笑)。そんなことはわかっていましたが、何かを耕さないといけないんじゃないか、という思いで活動していたんです。大切なのは、何をもって自分たちのやることの「意義」を見いだすのかということなんじゃないでしょうか。台湾で興行的な意味を求めることはなくても、榴華殿はわりと知られるようになりました。続けてきたことによって、お互いに世界が小さくなった、近くなった気がしています。どこかの国、どこかの世界に何かを残してこられたという思いがあります。彼らも私たちも共に刺激を受けているという「達成感」があります。
−ありがとうございました。

* 1 芸術文化振興基金が創設されたのは1989年。榴華殿が助成を受けるようになったのは、93年の第3回公演、野外劇「ホロコースト」から。

 

ひとこと> 海外での公演を97年から合同制作を06年から続ける「榴華殿」はベテラン・カンパニーであるだけでなく、演劇におけるアジアとの交流を考える上で忘れてはいけない存在である。タイニイアリス常連劇団の雄である。しかし主宰川松さんは演出家の持つイメージとはほど遠い、温和で物静かな方。あの物腰の柔らかさが海外でのコミュニケーションに、かえって武器になるのだろうと想像させるものがあった。(インタビュー・構成 カトリヒデトシ)

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