<金光仁三さん、佑木瞬さん> 激団リジョロ「ブルッシー」(2010年7月8日-12日)
「団長」の男臭さが“激”団を引っ張る。全員まるごと演劇で食わせたい!

後藤優也さん

金光 仁三(カネミツ・ヒロミ)
1974年生まれ。大阪市出身。関西学院大学の演劇サークルを経て、上京。劇団オルガンヴィトーへ入団し、アングラ演劇を学ぶ。その後TV・映画出演を経験し、『劇団リジョロ』を旗揚げ。2007年より『激団リジョロ』へと改称、ハードコア演劇を立ち上げる。
圧倒的な存在感とリアル。爆発力のある演技に定評がある。俳優・脚本・演出…舞台にまつわることはなんでもこなす生粋の演劇人。「クラウド・エンド」では2009年シアターシャイン下半期演劇奨励賞・優秀作品賞を受賞。
激団リジョロ団長http://www.rigolock-hitman.com/
佑木 瞬(ユウキ・シュン)
1986年生まれ。北海道出身。10歳から写真を始め高校在学時に『女子寮の中』を出版し写真家デビュー。高校卒業後、日本写真芸術専門学校に通うため上京。リジョロの舞台に出会い密着取材を始める。後に入団。スチール写真・制作を務める。
自主レーベルオフィス写真部代表http://office-shasinbu.com/
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−結成からはどのくらいになりますか?
金光仁三(以下「団長」) 関西で実験的なユニットを立ち上げてからだと10年です。もう35ですね。小劇場の中ではがんばってきた方だと思います(笑)。まだまだ気力、体力はあるんですが、財力がぎりぎりですね(笑)。
テントで活動する劇団のやりかたを見てきましたので、団員がみんな近所に住んで、同じエリアで働いて、劇団の仕事も全部自分たちで分担するっていうスタイルを貫いているんです。それがいいんでしょうね。

−大阪ではどのような活動をしてたんですか。また関西から一緒の方はいるんですか?
団長 関西学院出身ですので、学内や箕面のあたりで実験的な上演をしてましたね。演劇的な実験をしてましたね。今はやってる手法に疑問がありましたので、それをいかに変えていけるのかということに関心があったんです。ずっと一緒というのはいません。もともと作演出はしてましたが、東京に来てからいろいろしてましたが、オルガンヴィトーというところに入りました。状況劇場から唐組へと在籍されていた、不二稿京(元・藤原京)さん長谷川公彦さんたちがたちあげた劇団です。そこで状況や唐組のビデオとか見て、藤原さんの話を聞いて、決定的に影響をうけました。そこでこんどうひろこ(元・近藤寛子)と出会って旗揚げをしたのが5年前です。大阪時代から4回目くらいまではもう資料がパンフくらいしか残ってないんです。今の「激団」の名前になったのは3年ほど前。だからここにいる佑木や現メンバーはその時からで、大体2年越えたところです。純粋な演劇出身者はぼくだけで、他はモデルやプロカメラマン、イラストレーターと様々なんです。
−その方々が入団したきっかけはどういうきっかけなんでしょう。
佑木瞬(以下佑木) 私は最初お客でリジョロを見たんです。あとはワークショップとかそれぞれですね。みな「団長」と呼んで、畏れ慕っています。
−「大門軍団」ですね。
団長 (笑)
自分の劇団を立ち上げたのは、アングラ的なものをみて強烈な印象を持ちましたんで、唐、寺山さんなんかのやりかたにストーリー性を加えたいって思ったんです。
演劇の中にもっと「ライブ」を持ち込みたいとも思ってますし。役者が「生」を見せてほしいってのがあります。けれど、誰でも役者になれるってのは違うと思うし、「なま」を駆使しつつ、どこまでナチュラルに聞こえるか、というのを求めたいんです。でも役者を鍛えるのに演劇らしさを求めてセオリーどおりの動きや基礎をさせるということはしません。大きくいうと、テレビや映画と、舞台をやるからと役者を分けてそだてたくないんですよ。
というか自分がどうしても演劇から抜けられないので、映像に通用するようになったとしても舞台ができる役者を育てたいんです。劇団員には演劇自体のジャンルとしての底上げをしなきゃならないよ。といつも話しています

−劇団の方針というか、運営にもこだわりがありますか?
団長 今は年3回は必ずやると決めてます。ほんとは4回やりたい。公演あたり7ステージはやりたい。ここ2年「激団」に名前を変えてからはチケットは、毎回ソールドアウトでやってます。

− それは小劇場ではかなりすごいですね。年間のステージ数としても。
団長 演劇で食べようというシステムを作るとしたら、6回7回やらなきゃいけないと思ってるんですね。激団を2つに分けて、巡業で打てるシステムをつくりたいんです。作品数のストックはありますし、来年くらいにはチャレンジしたいです。
例えば大阪で知っていた、同じ頃やっていた劇団が東京にきて商業的になったりして、変わっていくのを見て、そういうことはやりたくないな、と思うんですよ。劇団員全員を「芝居で食わせたい」。佑木はカメラマンとしてちゃんと食えてて、その上でうちの制作をやってくれてる子なんですよ。

−佑木さんはスチールも撮ってらっしゃいますよね。制作業務も担当しているんですか?
佑木 そうですね。制作とスチールの二つです。当日制作も私が主であとはお手伝いです。うちのゲネはステージ写真撮影も兼ねているんでそこで写真を撮ってます。
−すべての仕事を劇団内で分担しているんですね。
団長 ええ、全部自給自足してます。その代わりといってはなんですが、うちには「ノルマ」が存在しないんです。お客さんも仲間内にたよらず、なるべく一般展開を目指してます。お客さんはお客さんが呼んでくれるというか、周りがつけてくれるようになりましたね。
佑木 団長ファンが多いんですよ。
団長 いやいや。散々叩かれてこの世界で生きてきましたし、劇団全体で天下とる気でやっています。
劇団員を、外部の団体へある程度出演できるようにしたり、プロダクションを紹介したりして、定期的に外を見せるように心がけています。音楽ライブなんかも経験させてます。でもメリットのない客演にはださないようにしてます。もちろん履歴になるようなものならいいんですし、本人が自分で仕事とってきたら、「出ていいよ」という感じにしてますけれど。
劇団としての純益が上がってきているんで、もうあと1年くらいで市販的なところだけで一公演まわせるんじゃないかなと思ってます。
それぞれがバイトした金を劇団にだすのではなく、自分のために、たとえば身なりを整えたり、外で展開するための資金にしたりしていけるようにしたいです。
−大局的な考え方ですね。
団長 サラリーマンとかやってますからね。劇団員が食えるようにしないと…。

−今回の芝居はどんな話なんですか?
団長 ホームレスの話です。大阪の話ですね。自分が昔そこに寝泊まりした経験談を持ち込んでます。愛隣地区が高校の近くでしたんで、そのころ大阪城公園にブルーのテント村がありました。そこの人たちが自給自足して生きてました。ぼく自身が行き詰まって悩んでいる時、そこに寝泊まりしたことがあるんです。その時にいろんなことが見えてきたんですよ。今でも雇用問題や生活保護問題などありますよね。そういう問題をあぶりだそうというわけではないけど、うちの劇団だってまだまだですが、ギリギリのところにいるという実感を、ホームレスのギリギリさと重ねあわせることで、オリジナリティを持って表現できるものがあるんじゃないかなと思ってます。
ぼくは自分の生い立ちや経験をよく脚本にするんだけれど、そういう実感を打ち出していかないと、ハードコアとうたっているんですから、真実が描けないんではないかと思ってます。やはりリアリズムが必要だと思います。だから必ず社会的な事柄が入ってきます。前回ロミオとジュリエットでしたが、日本人と在日の人との結婚問題として描きました。その前も大阪の在日問題や、犯罪者と被害者の娘が交錯する話など、哲学的とは言えないかもしれないけど社会を根底において、物語を展開してます。遠回しでなくストレートにズドンとね。
そこを役者としてはまだまだな劇団員におとしこむのには時間がかかりますが、きっちりやって行きたいですね。かれらの余計なものをとりさっていって、もっとハングリーさを出していけるようにしたいです。

−団長の熱いものは年齢より上の演劇人を彷彿とさせますが。
団長 唐組だったり天井桟敷だったりにこだわりつづけて本読んだり、ビデオみたりしました。藤原京にたたき込まれた「紅テント魂」ですかね。
同時代の人気劇団だったのは関西ですから、ピスタチオとか新感線とかだったんですが、そことは一線を画したい気持ちが元々強かった。ぼくの中で演劇とはそういうものではなかったです。
今演劇の中心が「人」ではなくなってきたと正直思っているんです。「人」がしゃべっているって感じがしなくなってしまったとも思う。例えば黒沢映画なんか、映画なのにエネルギーをだしてしゃべっている。あれが演技の王道だと思う。何でも時代とともに変化するんでしょうが、根本には舞台役者っていうプライドがあってしかるべきではないか。昨日明日いきなり役者が始められるってしたくないですよ。役者としての熱い「ライブ」の表現を追求したいと思ってます。

−では、次に佑木さんにお伺いします。写真を始めたきっかけは?
佑木 小学校4年の時に親戚のおじさんの影響で一眼レフを持ち始めました。北海道出身なんです。東京へ専門学校のため来ました。
団長 写真で賞をもらって写真集を出したのは高校時代ですよ。逸材なんです。なんでうちの劇団で写真をとってるんだか(笑)。
佑木 東京に来て初めてお芝居を観たんですが、それがリジョロだったんです。
団長 そこで道をあやまりましたね(笑)。最初プロデューサーさんが連れてきて紹介してくれたんですけど、光ってましたね。雰囲気ができあがっていて…
佑木 最初、年上だと思われてたんです。一回りも下なんですけど。
団長 目がすごくて、「ああ、プロだ。プロの人だ」と思ったんですよ。
佑木 その後ちょうど写真の学校でテーマをもって撮るという課題があって、人を撮るのがもともと好きだったんで、リジョロさんをとったんです。
−それでいまカメラマン兼制作ですか、すごいですね。
佑木 炊き出しもしてます。
− ! いいですね。炊き出しのある劇団…
団長 彼女自身のレーベルがあって、そのサポートをぼくがさせてもらってます。
−共存共栄ですね。
佑木 ええ(笑)。他には個展をやったり、ブライダル写真をとったり、北星余市高校の年間記録というのもやらせてもらってます。
−団長が考える、一人一人がしっかりと確立しつつ、劇団も大きくしていくというプランの体現者なんですね。 今日はどうもありがとうございました。

ひとこと> はじめはやりたいからやる。好きだからやるで外に理由はいらないんだろうが、長く続けるためには、やりたいことを続けられる環境を整備する努力が必要である。団長は男らしさだけでなく、明確なビジョンから団員を役者として、社会人としてまるごとなんとかしようと努力している。慕われているようすは制作の佑木さんの話でおわかりになっていただけるだろう。大人として、劇団を続けていく意志も方策も若手には大いに勉強になるところである。きちんとした問題意識に基づくハードコアな作品も期待が大きい。(インタビュー・構成 カトリヒデトシ)

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